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会報
第46号
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日文生随筆

大学院生活について
博士前期課程1年 新津 里奈

 皆さんは、「大学院」という言葉にどのようなイメージを持つでしょうか。もしかすると学部の延長上にあり、自らの研究分野だけを突き詰めることが出来る場所、という印象を持つ方が多いかもしれません。もちろん研究を突き詰めることは大学院生として最も基本的なことです。しかし、大学院での日々は決して甘いものではありません。そのことは、私も進学を志した時から覚悟していたつもりでしたが、想像と現実のギャップは考えていた以上のものでした。まず、博士前期課程の単位要件をご紹介します。必要単位は三十単位(八授業分に相当します)で、これらを二年間のうちに取得することになります。また、二年次に中間発表会で報告を行った上、修士論文を提出することが修了要件です。
 語学や教養の授業が必修だった学部生の時とは単位数が少なく感じられるかもしれません。しかし講義の多くは演習形式であり、発表が中心です。その準備のために日文研の在室時間も必然的に多くなり、先生の研究室に伺って直接ご指導頂くことも多々あります。
 発表では活発な意見交換がなされ、先生からはもちろんのこと、先輩方、同級生からもこれまで考えも及ばなかったようなご指摘を頂きます。どんなに準備をしていたつもりでも、自らの甘さを再認識させられます。それと同時に少しでも多くのことを吸収しようと、一回一回の講義に全力投球する毎日で、気を抜く余地は全くありません。
 厳しいことばかり書き連ねてしまいましたが、大学院生としての毎日はとても充実しています。人生の中でこれほど文学に向き合う日々を過ごすことが出来るのは、おそらく今しかありません。学部生として培った四年間に加えて研究を続けられる幸せに感謝し、悔いの残らない大学院生活を過ごしたいと思っています。


私の就職活動
4C 金子 さち

 私が就職活動を本格的に始めたのは、11月半ばのことです。私は部活動に所属しており、最後の演奏会に向けて全力投球したかったため、それまでは部活動に集中していました。引退後、学内の説明会に足を運び、たくさんの企業を見て、自分が何をやりたいのか考えました。その結果私は、人と接することが好きで、人の笑顔を見ることが一番の喜びであるということに気づき、相手を感動させるようなサービスでお客様を笑顔にできる仕事に就きたいと思いました。そして消費者に直接接客ができることと、高い接客スキルが求められることを軸に、企業を絞っていきました。以前からの憧れもあり、次第に百貨店業界や宝飾業界が第一志望となっていきました。選考が進む中、突然東日本大震災が発生しました。一・二週間は普段の生活の心配に加え、就職活動の心配も募り、本当に不安な毎日を過ごしました。そして私の志望企業はほとんどが高級品を扱う企業だったので、震災後の景気変動をもろに受けてしまいました。その結果、第一志望を始め、志望企業が採用中止になりました。この知らせを受けたときは本当に悲しくて、頭が真っ白になりました。しかし、これも運命だと思い、残っている企業の選考をひたすら頑張りました。結果、内定をいただいたのは信用金庫でした。当初信用金庫への志望度は高くなかったのですが、サービスにとても力を入れているところで、ここなら私のやりたいことができると感じました。このように就職活動は山あり谷ありです。しかし、何が起こっても前向きに頑張っていけば、必ず道は開けます。皆さんも、辛いことがたくさんある就職活動になっても、あきらめずに前を向いて頑張ってください。心から応援しています。


介護体験記
3D 小関 瑠美

 「はい、あげる。」舌足らずな声と共に手渡されたのは触れると音が鳴るおもちゃでした。
 「これ……よかったらあなたにあげるわ。」はにかみながら手渡されたのは折り紙で作られた小物入れでした。
 前述は6月に特別支援学校にて脳性まひの児童から、後述は9月に老人デイサービスセンターにて100歳を超える利用者の方から掛けられた言葉です。どちらの施設でも今まで知らなかった現実を目の当たりにして自分の視野の狭さと認識の甘さを痛感しました。特別支援学校では、事前に私の体験先は肢体不自由の子どもたちが集まる学校だと伺っていたので、交通事故で手足を失うなど後天的な障害を持つ児童・生徒がいるのだろうと想像していました。しかし、出会った子どもたちはみんな小さくて頼りなさ気でした。この施設にいる子どもたちの多くが脳性まひなどの先天的な病気から来る肢体不自由であると知り、驚きと共にどう接すればいいのだろうかと困惑しました。老人デイサービスセンターでは利用者の方は私より四倍も五倍も長く生きていらっしゃるのだと考えるとどのように接すればよいのかと途方に暮れました。もちろん私は教員免許もまだ取得していないし、介護福祉士の免許も持っていないので、どちらの施設においてもできることは限られていました。しかしどちらにも共通して言えることは、常に相手の気持ちを推し量って行動することが求められるという点でした。普段私たちが見ている世界と車椅子から見た世界はまったく違います。自分にとっては何でもなく無意識に行えることがひどく困難だったりします。それを同じ目線に立って手助けをしたり、時には一緒に悩んだりすることが大切だということは、将来教職に就く上でも必要な考え方なのではないかと改めて考えさせられました。


教育実習体験記
4D 粕谷 剛史

 自分の母校である高校に、教育実習に行ってきました。暑い6月のことでした。
 現代文と古典の授業を担当し、合計で24時間も授業することができたので、多少ながら自信をつけることができました。実習に行って教師になりたいという思いが強くなったというのは、都市伝説でもなんでもなく、おそらく真実でしょう。
 はじめのうちは、「まるで鬼だった」と生徒に言われてしまうほど、緊張して顔が強ばっていました。「先生!」と呼ばれても、「あ、どうも」くらいしか言えませんでした。教師に必要なのは、まず元気の良さ、明るさだと指導教諭に注意されました。そういえば、小学校の先生はみんな元気の塊みたいな人ばかりでした。
 掃除の時間、休み時間、放課後など、授業以外の時間には積極的に生徒と会話することを心がけました。「先生にたくさん話を聞いてもらえて良かったです。」と生徒に言われ、授業以外のところでいかに生徒とコミュニケーションを取っていけるかが大事なんだと思いました。そういえば、私も中学校の頃、掃除の時間に先生と話すのを楽しみにしていました。
 24コマの授業のうち、満足いく授業ができたのは1コマだけでした。授業はとにかく、準備が全てです。入念に、用意周到に準備をした上で授業をするのは教師のマナーだと教わりました。実習中は、備えあれば憂いなし、と毎日、御経のように唱えて準備しましょう。
 指導教諭の先生、教育実習を共にした仲間、生徒たちにはもう頭があがりません。本当に貴重な経験ができたと思います。本当の先生になれるよう、まだまだこれからがんばっていきます。


冒険を楽しもう
博士前期課程1年 曲 揚

 留学ってどういう感じですか、と聞かれたら、私はきっとこれが真新しい世界への冒険だと答える。慣れていない言葉を操り、見知らぬ国に生きていくなら、次の瞬間はどん な人と出会うだろう、どんな光景に接するだろう、誰も予測できず、すべては未知だ。
 日本に来て三年目。始めの二年間古い町金沢で過ごした。四季美景をたっぷり満喫してから、東京に来た。ところが、東京での生活ペースは金沢よりずっと早い。また、院生の授業も学部時代と違うレベルだった。まだ金沢ののんびり気分から抜き出していない私は慌てふためいていた。始めの頃、先輩たちの真面目な研究姿を見、濃密で高いレベルの発表を聴いて、言葉さえうまく言えない自分がこの国の文学を研究するなんて、痴人のたわごとではないかと思うようになった。さらに、最も衝撃を受けたのは、漢文の授業で母国の古典文学への無知と直面したことなのだ。こんなぼろぼろな自分は研究を進められるのか、人生の迷路に立った私は狼狽した。だが、私は幸運だった。先生や先輩がいろいろなことを優しく教えてくれ、励ましや伸びるチャンスもたくさんくれた。先生や先輩の温かい笑顔から、私は前に進む勇気をいただいた。
 まだまだ未熟だが、この半年間の成長を自分でも感じることができる。確かに留学という言葉にさまざまな辛酸や困難が潜んでいる。冒険だから、いい日和ばかりではないことは当たり前だろう。しかし、これらの困難より、ずっと大きいのは、未知の世界が自分にくれた無限な可能性だと思う。自分を励まして悪天候と戦う意志や気力はもちろん必要だが、一番大事なのは冒険を楽しめる気持ちではないだろうか。眉をしかめて戦わなきゃという考え方より、笑って冒険を思う存分楽しもうという考えにチェンジしたらどうだろう。


最後のモラトリアム
2A 山田 愛美

 早いもので青山学院大学に入学してから、一年半が経ちました。高校に通っていた頃とは、いろいろなことが変わりました。アルバイトを始めました。授業も黒板を写すのではなく、自分でメモを取っていくものになりました。サークル活動も先生という絶対的な存在が消えました。
 多くのことが変化しましたが、中学生の頃の不安定な心情を、今になって思い出すのです。きっかけは太宰治の『女生徒』という作品でした。『女生徒』は十四歳の少女の一日を、一人称で語る小説です。そこに描かれる心情が懐かしく、そしてなぜだか共感をも覚えてしまいます。
 いたたまらない。肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。(『女生徒』)  変わってしまう自分が恐くて、とてつもなく大人になることが嫌なのです。大学は学生としての最後の機会になると思います。社会に出ることが恐くて、ずっと学生でいたいとどこかで考えてしまいます。
 これほど自由な時間は大学生のうちしかないと思います。様々なことに挑戦していきたいです。私の大学生活はまだ半分残っています。残り半分、精一杯暴れてやろうと企んでいるところです。このモラトリアムを堪能しようと思うのは、自分に甘いのでしょうか。おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?◯もう、ふたたびお目にかかりません。(『女生徒』)
 なぜなら、学生の私と社会で働く私は全くの別人だからです。


2D 小峯 歩

 私は桜の花が嫌いだ。理由は特にないのだけれど、何となく苦手というか、あの満開に咲く桜がずらりと並ぶ姿は綺麗だが、威圧感のあるものだと思う。
 あの三月一一日、私は家に一人でいた。そして家が揺れ始めたのは、そろそろ干していた布団を仕舞わなくてはと立ち上がったときだった。揺れ始めた時はそのうち止むだろうと思ったが、電気が止まり、電話の主電源が切れる「ピー」という音が鳴った時、本能的に危険を感じ家の外に飛び出した。庭では揺れのため立っていられず、家が軋む音が聞こえた。電線が切れるのではないかという程揺れており、とにかく何が起きているのかわからなかった。その後そのまま私の住んでいる地区は停電し、暗闇の中、家族はいない、連絡は取れなく無事はわからない、テレビがつかないため何が起きたのかわからない、暖房器具がつかないため寒い、と不安な時間を過ごした。半年以上経つ現在でも、本当に怖かったと思うし、もう二度とあんな思いはしたくない。東北地方の方は津波など、私以上に怖い辛い思いをしたのだろう。しかしあの地震によって東京にいた私でさえ、暫く夜を眠れず食事が喉を通らなかった。それ程あの地震は恐ろしいものであったのだと今改めて思う。
 地震発生当日から一ヶ月後、桜は綺麗に咲いた。地震が発生したためにその美しさが変わる、ということはなく、例年通りとても綺麗であった。そのような桜に沢山の人々が心を和ませたのだろう。だが、私はそんな桜を怖いと感じた。今回の震災で多くの人々が犠牲になり、多くの人々が今も尚苦しんでいるというのに、桜は何事もなかったのかのように咲いて、あぁ桜にとっては無関係なことだったんだなと思えたからだ。きっと自分の家族や自分自身が亡くなっていたとしても、そんなことはお構いなしに桜は例年通り咲いたのだろうと思うと、何故かとても怖かった。戦争後、戦地から日本に帰還した兵士が満開に咲く桜を見て、発狂したというのも、わかる気がする。
 私は桜という花が好きじゃない。あの満開に咲きずらりと並ぶ姿は、人々の心を和ませるかもしれないが、自然にとっては人間に何が起きていても無関係なのだということを感じさせるからだ。来年もきっといつも通り綺麗に花を咲かせるのだろう。そのとき恐怖感を感じないよう、今は少しでも被災地の復興を心から祈っている。


かけがえのない友人
1C 藤本 恭輔

 半年ぶりの母校のグラウンドはうだるような暑さだった。湧き上がる蝉の大合唱が非常に鬱陶しい。グラウンド脇のベンチに座った俺は、手にした扇子で生温かい風をひたすら顔に送りつける。
 大学が例年より早く夏休みに入ったことで、俺は七月半ばにして早々と関西に帰省していた。その後、春休みに取りきれなかった運転免許を無事取得した俺は、お盆を前に同じく帰省してきた友人と二人でここを訪れた。
 俺は扇子であおぐ手を止めないまま、背後の友人の方を見やった。友人は自販機で買ったらしいスポーツ飲料を手にこちらにやってくると、俺の横にどかっと座り込んだ。小気味いい音を立てて缶を開け、風呂上がりのおっさんがビールをあおるように、冷えたそれを口に流し込む。それを見て、俺も心なしか喉が渇いていることに気付いた。
 「……余りそうやったらもらったるけど?」
 「欲しいなら欲しいって言えば?」
 うぐぐ。長い付き合いだけあって、言いたいことは筒抜けのようである。
 俺が返事に窮していると、友人は飲みかけのスポーツ飲料を差し出してきた。
 「余ったんやけど要る?」
 友人は、がっしりとしたその見た目通り、高校時代は陸上部投擲パートのエースとして腕を鳴らしていた過去がある。この猛暑の中、そんな男がスポーツ飲料を飲み残すなどあり得ないことだったから、俺は感謝して四分の一ほど余ったそれを受け取った。
 少しばかり冷たい風が横を通り抜ける。挨拶したい先生がいると友人が席立った後、俺はベンチに座ったままぼんやりとこの高校でのことを思い起こし、柄にもなく妙な感慨に耽っていた。友人たちとばか騒ぎしていたのも今は昔。この学校を卒業した今、ある者は大学に進学し、ある者は浪人し。俺自身、関東の大学への進学を決め、周りとは違う方向へ舵を切った。そこに、気心の知れた仲間はいない。そして、大学でそういう仲間が作れるのかどうか、正直自信が持てない俺がいる。「かけがえのない」という言葉は、これほど人を悲観的にさせるものなのか。
 挨拶を済ませた友人は、戻ってくるとお待たせと声を掛け、再び俺の横に座った。……そういえば、こいつとの出会いはどんなだったか。最初から仲が良かったわけではない。しかし、なぜかこいつは現にこうして、俺の横で新たに買ってきたらしいスポーツ飲料を手の中で弄んでいる。
 (つかやっぱりあれじゃ足りひんかったか)
 あっという間に缶を空けると、友人は立ち上がって俺に声をかけた。
 「そろそろ行くか」
 「……りょーかい」
 さっきより弱まるどころか一層照りつける太陽の下、俺たちは帰り道を歩き出した。


新しい学校
1D 長谷川良子

 長く厳しい受験生時代を終え、晴れて青山学院大学に入学することが出来た。大学生としての新しい生活は、今までとは違うことばかりで慣れるまでかなりの時間を要した(未だに慣れていない要素もあるかも)。
 まず、通学である。家から大学まで二時間。高校までは一時間もかからなかったのに。正直なところ、淵野辺にキャンパスがあるのを受験するまで知らなかった私は絶句した。しかも定期代も相当な額になってしまった。他にも、町田駅は人が多すぎだし、横浜線の本数が少ないし、そのくせ快速は淵野辺に停まらないし(文句ばっかりになってしまった)…。良い所としては、今まで電車にそう長い時間乗ることが無かったのが、今は小田急線に四十分ほど乗っていられるため、その間ずっと曲を聴きながらボーっとしていられるということだろうか。立っていると疲れてきて次第にボーっとできなくなってくるが。
 通学を離れて、キャンパス(淵野辺)について。初めて来た時は、その広さ&綺麗さに驚いた。かつて通っていた高校は、地価の高い都心にむりやり建てたせいか校庭も無く随分狭かった。それに比べて新しい学び舎は、なんと広い芝生がある。学校の敷地に芝生なんて、なんか良いなぁと思う。仰向けになって空を眺めたりとか(何時の漫画なのか)。
 ここまで色々と新しい学生生活における発見のようなものを挙げてきたが、ここに書ききれなかった事もあるし、またこの先でも今までには無かった経験をしていくのだろう。大学生としての四年間(で終わるはず)は、まだ始まったばかりである。


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