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会報
第46号
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研究余滴

注釈との付き合い方─素人の目─
日本文学科教授 高田 祐彦

 日ごろ、古典文学の注釈書を読んでいると、時折疑問に感じることがある。それは、注釈そのものの正否ということとは別に、この箇所にこの注をつけていいのかな、という類の疑問である。
 たとえば、『源氏物語』若紫巻、光源氏が若紫をかいま見する有名なくだりがある。源氏の視界には、四十くらいの尼君が勤行している姿がある。そこへ、十歳くらいの一人の少女が走ってくる。「どうしたの。子供たちとけんかでもしたの」と声をかけた尼君の顔が少女と似ているので、源氏は、「子なめりと見たまふ」。少女は、大事にしていた雀の子を「いぬき」(女の童)が逃がしてしまった、と訴える。「限りなう心を尽くしきこゆる人」(のちに藤壺と明らかにされる)によく似た少女に、源氏の目は引きつけられた。いつまでも子供っぽい少女に、尼君は、「故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし」と言う。ここに、注釈書Aは、「尼君の死んだ娘。兵部卿宮の妻。紫の上の母。この『故姫君は』の言葉によって、源氏は少女の境遇を知るとともに、読者も初めてこれを知る」という注をつける。注釈書Bも、「この会話から女の子は尼君の子でなく、母(姫君)は既に亡いことを源氏は知る」とする。
 この注は、いささか困る。人物関係は、そのとおりである。しかし、この時点でそれはわからない。先取りし過ぎなのだ。源氏は、少女が尼君の子ではないかと見ているので、「故姫君」とは誰であるのか、源氏も読者もわからず、たとえば、「故姫君」は少女の姉ではないかといった疑いを持っても打ち消されてしまう。その晩、源氏は、尼君の兄弟である僧都と話をして、巧みに少女の素性を聞き出し、先の注釈書のような人物関係を知る。兵部卿宮が藤壺の兄弟であることは、桐壺巻で明らかにされていたので、源氏が思いを寄せる人も藤壺であるとはっきりしたのである。こうして、少女が藤壺の姪であることがだんだんとわかってくるような、ちょっとした謎解きの興味で読者を引っぱってゆく展開になっているのである。
 しかし、ここで私は、必ずしも注釈書の非を責めようというのではない。注釈書というものには、できるだけ読者が読みやすいように情報を提供する必要がある以上、上記のような注は、どうしてもやむをえないという面があるからだ。注釈者は、厳密な意味ではここで注をつけるべきではないとわかっていても、読者への親切のためつけざるをえない、というジレンマを抱えているはずである。この類は、枚挙に暇がない。
 そこで、われわれ読者としては、こうした「親切な」注を手にした場合、そこに盛り込まれた情報をそのまま鵜呑みにしないよう、注意する必要がある。作品「全体」にわたる事実としては正しくとも、個別の箇所という「部分」においては、情報過多であることによって、その枠組みに制約され、読みを狭めてしまう可能性があるからである。しかも、作品や資料を読み慣れた読者の方がかえって疑問を感じない、ということもある。われわれは、勉強を深めてゆくにつれ、素朴な意味での素人ではなくなるが、内なる「素人の目」をいつまでも自覚的に持ち続けることが大切であろう。


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