今年度の夏季集中講座【B】は中村康夫先生を講師にお迎えして平安時代の歴史物語である『栄花物語』について学びました。
中村先生は、日本の正史が六国史(『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』)までで、醍醐天皇の御世に成立した『日本三代実録』以降編纂されず、宇多天皇より後代の天皇の御世については日本の正史には記されていないという事に注目されました。それに対して『栄花物語』は正史には記されていない宇多天皇の御世の事から書き始められており、六国史を引き継ぐ目的があったのではないかと中村先生は指摘され、『栄花物語』の作品性を考える今回の夏季集中講義は始まりました。
六国史と比べると『栄花物語』には作者の脚色とされる事実を膨らませた史実とは異なる誤りがあり、その作者の脚色が文学的特徴とされ、『栄花物語』は文学作品として読むべきで、歴史書では無い、と一般的には位置付けられています。
それに対して中村先生は歴史書には、・年月日(時間)、・書き記すべき事の配置、・事が持つ情調(意味)、・それが後々どうつながっていくのか、という事件性(影響力)、・その事柄がどの類に属するか(似たような事は一緒に書いてしまおうという意識)、という類別性、の五つの型があり、そのうちの・、・を重視したのが六国史で、『栄花物語』は・、・、・に関わる意識が強かったため・、・が後退し、それが『栄花物語』の誤りを形作っているだけで、『栄花物語』は歴史書としての性格を認定する事が出来るのではないか、とされました。『栄花物語』は史実に作者が脚色を加えた物語であり、六国史との関係を全く考えずに『栄花物語』を読んでいた私にとってこのご指摘は大きな衝撃でした。
講義ではこの他にも『源氏物語』との関連性や「書く」、「記す」の使い分けについて、「自ら」、「理」といった様々な言葉の用例を調べる事によって『栄花物語』の作品性を探りました。その結果、年月日の下に起こった出来事を記す六国史に対して『栄花物語』は、立体的に起こった出来事を再現するだけではなく起こった意味にまで筆を広げて「新しい時代」を敏感に感じながら書く、という作品性を持っていると感じる事が出来ました。
今回の講義で大きな役割を果たしたのは「用例」でした。作品中の膨大な言葉の中から必要な言葉だけを抽出するのは時間がかかります。それを解決するのがコンピュータです。コンピュータ上のデータベースを活用する事によってスピーディーに効率良く研究が進みます。講義の最終日、中村先生は課題であるレポートのテーマに沿ったデータベースを受講生それぞれに配布してくださいました。また、ただ使うだけではなくコンピュータのプログラミングについての講義も行ってくださいました。データベースを使用したのは初めてではありませんでしたが、講義の後レポートを書くに当たってデータベースを使用した時、改めてその効率の良さを実感しました。
四日間という短い間の文字通りの「集中講義」でしたが、少人数の中で意義ある時間となりました。
三年A組 新津 里奈
(講義名・『栄花物語』とは何か
─歴史物語の本質を調べる─