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会報
第44号
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青山学院大学 公開講座

王の表象 文学と歴史の境界 
第二回「源氏物語と天皇」
日本文学科教授高田祐彦先生
二年A組 青井 真季

今年度の青山学院の公開講座の第二回目は、文学部日本文学科の高田祐彦先生の下、「源氏物語と天皇」という題で行われました。光源氏という優れた人物が、なぜ天皇になれなかったのか。そして、代々の天皇とはどのような関係だったのか。短い時間でしたが、とても凝縮された実のある講義を受けることが出来ました。
源氏物語は非常に長いテキストですが、その長い話の中には四人の天皇が出てきます。四人とは即ち桐壺帝、朱雀帝、冷泉帝、今上帝なのですが、桐壺帝は光源氏の父であり、朱雀帝は腹違いの兄、冷泉帝は表向きは弟だがその実は藤壺との不義の子で、今上帝は娘の夫と、いずれも光源氏の血縁者であるという共通点があります。講義では、源氏物語の世界を醍醐、朱雀、村上天皇の三代に準ずる時代であるとする「準拠説」や、紫式部が非常に漢籍に精通していたこと、そして源氏が不思議な予言を三つ受けていたことなど源氏物語を読む上で重要な知識を挟みつつ、光源氏の略歴を追っていきました。
光源氏の父親である桐壺帝の時代は光源氏が二十歳になる頃までです。彼はかの有名な桐壺巻の冒頭にもあるように、後宮には「女御更衣あまたさぶらひたまひける」という環境にいながら、光源氏の母である桐壺更衣ただ一人を熱愛していました。その偏った愛からの心労により、結局更衣は亡くなってしまうのですが、その後は更衣によく似た藤壺という女性を妻に迎えます。彼女は後に冷泉帝となる子を産む女性です。桐壺帝は光源氏をとても可愛がっており、死後も夢に出てきて導くなど光源氏を助ける存在です。
次の朱雀帝の時代は、一言で表してしまえば光源氏の不遇の時代です。朱雀帝自身は穏やかな人だったようですが、天変地異が相次いだために都は荒れていました。また、朱雀帝の実質の夫人のような存在であった朧月夜の君と想いを交してしまった源氏は須磨に下り、都から離れざるを得なくなりました。
そして冷泉帝の時代は光源氏が栄華を極める理想の時代です。冷泉帝自身は、表向きには桐壺帝と藤壺の子どもで言わば源氏の腹違いの弟ですが、実は源氏と藤壺の不義の子どもです。彼は在位中、藤壺の死去により自分の出生の秘密を知り、父である源氏を臣下としているという不孝に気づいたため、光源氏に帝の位を譲ろうとします。しかし源氏自身がそれを遠慮したため、彼は源氏を准太上天皇としました。これは、上皇に等しい待遇ということで、源氏は臣下でありながら皇族同然となったのです。光源氏は最後まで天皇にはなりませんでしたが、結果的には帝を超えた自由な「王」となったのでした。
私は去年、日本文学講読で源氏物語について学び、準拠説や話の大体の流れは分かっていたのですが、講義では時代を桐壺帝、朱雀帝、冷泉帝、今上帝に分け、それぞれの天皇の特徴や光源氏との関わり方を絡めつつ時代を追っていったので、また違った視点でとても面白かったです。


王の表象 文学と歴史の境界 
第三回「古代中国の文学に見える皇帝像」
日本文学科教授大上正美先生
早稲田大学文学研究科博士後期課程1年(二〇〇六年卒業)李満紅

本講座は青山学院大学公開講座「王の表象〜文学と歴史学の境界〜」の第三回目に当たる。漢の武帝の時代の文学と、魏の曹操の時代の文学を通して、絶大な権力を駆使した安定王朝の時代の文学と、乱世にあって王朝を簒奪する実権者の時代の文学とを対照させながら、中国古典文学を貫く伝統的な精神、及び時代と文学との関わりを明らかにした。
漢の武帝は儒教道徳を国教化して、揺ぎない中央集権国家体制を築いていた。本講座ではその時代を代表する二人の文人、司馬相如と司馬遷が取り上げられた。司馬相如は武帝を限りなく称揚して「賦」という大作をものし、「美文」として高い評価を得た。しかし、その賦は皇帝讃美と同時に諷諫性という重要なテーマを持っていた。有名な「天子遊猟賦」は美麗な修辞の羅列で遊猟・宴会の素晴らしさを述べたところで話題を転じ、天子が過剰な華美を戒め、明君として政治を執り行い、天下の人民が喜ぶことで結ぶ。武帝はその賦を評価することで、自分は度量がある明君であることをアピールした。このような諷諫性をもって時代を批判する精神こそが中国文学の伝統となった。他方、司馬遷は武帝への屈折した反撥精神で『史記』のドラマを完成させた。『史記』は司馬遷が父(司馬談)の遺志を受け継いで始め、李陵を弁護して宮刑に処せられたにも屈せずなお書き続けた歴史大作である。司馬遷の「報任少卿書」には『史記』執筆の意味を明した文章がある。「此人皆意有鬱結、不得通其道也。故述往事、思来者…以舒其憤思、垂空文、自見」、いつか理解される時が来る事を念じながら、空しい文章に自分の鬱屈した思いを託す、というのである。この司馬相如と司馬遷は表現者としての二つの対極的な姿を示している。つまり、文学は美麗な修辞の世界を現出するためにあるとする審美的認識であり、一方、文学は不遇の生涯を強いられた者が「発憤著書(憤りを発して書を著す)」というやむにやまれぬ営みの産物であるとする態度である。この二つが中国文学を貫く表現者の態度である。
 曹操はそれからほぼ三百年後の、混乱した時代を統一して三国・魏の基を築いた英雄であり、姦雄でもある。比類ない破壊力で、社会と人心を掌握した彼の周りには、息子曹丕・曹植、建安七子といった個性を競う文人が集った。それまで皇帝を喜ばせるために存在していた文学が、曹操が推進する「個性の産物」として徹底され、詩は初めて自己表現としての場へ踏み出した。本講座では曹丕と曹植との文学認識の違いに焦点が当てられた。曹丕は「文章は経国の大業」を提唱し、文学を政治にも匹敵する価値を有する営みとし、一方、曹植は「辞賦は小道」と述べ、文学よりも政治が圧倒的優位にあるとした。しかし曹植の詩の方がすぐれ、後に「詩聖」と称えられたことの中に、文学と政治・現実の関係の深い意味、文学の価値とは何かを知る手がかりがある。
時代に順応し、或いはそれに抗いながら生きていた多くの表現者たち。彼らが織り成す広大な文学の世界に、文学史・精神史という揺ぎない一本の道が通された講座であった。


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