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会報
第42号
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随筆「青山界隈」

茂吉と太郎と草田男と
日本文学科教授 日置 俊次

青山界隈は、かつて村上春樹の散歩コースでした。現代作家たちはよく青山を歩いていますね。しかし今日は、既に故人となった文学者や芸術家たちの痕跡をたどってみたいと思います。

青山といえば、まず斎藤茂吉が思い浮かびます。茂吉は明治十五年、山形県南村山郡金瓶村に生まれ、十四歳の夏、親戚の斎藤紀一をたよって上京、後に斎藤家の婿養子となります。東京帝国大学医学科を卒業し、精神科医となるのですが、一高在学中に正岡子規の『竹の里歌』に感銘して、短歌を始めます。

大正二年に歌集『赤光』を刊行、歌人の地位を確立します。大正十年よりウィーン大学とミュンヘン大学に留学、大正十三年帰国します。ところが帰国直前、斎藤家の青山脳病院が全焼します。

青山脳病院の復興に力を尽くした茂吉は、昭和二年に院長となりました。青山霊園近くにあった病院の壮麗な西洋建築は現存しません。跡地には「あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきは)るわが命なりけり」の句碑が建っています。学生の皆さんは、私の「短歌ゼミ」の散策でご案内しています。

茂吉の歌は、誰でもどこかで読んだ記憶があるはずです。


死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり


青山キャンパスから青山脳病院跡に行く途中に岡本太郎記念館があります。太郎は明治四十四年生まれの画家、彫刻家です。ここは平成八年に八十四歳で亡くなるまでアトリエ兼住居でした。

青山学院の向かい側にある「こどもの城」に「こどもの樹」という色彩鮮やかな彫刻があります。あの作者が太郎です。「太陽の塔」に代表される巨大モニュメントを始め、作品はエネルギーにあふれています。「芸術は爆発だ」と太郎は考えていました。

アトリエのある場所は、戦前は青山高樹町三番地で、岡本一平・かの子夫妻そして息子の太郎が暮らした場所です。昭和四年に一家はヨーロッパへ旅立ち、かの地で十年以上暮らします。太郎はパリでさまざまな芸術家や文学者たちと付き合いました。

アトリエは昭和二十八年に坂倉準三設計で竣工しました。凸レンズ形の屋根がユニークです。坂倉は有名なル・コルビュジェの愛弟子です。パリ時代に太郎と知り合い、前衛画家と前衛建築家として親しくなったそうです。

記念館にはおしゃれなカフェもあります。太郎は青山に育ち、入学した小学校も近くの青南小学校です。斎藤茂太や宗吉(北杜夫)など、茂吉の子供達も青南小学校で学んでいます。

この小学校創立七十周年の記念に、中村草田男の代表句である「降る雪や明治は遠くなりにけり」が刻まれた碑が正門内に建立されました。碑は草田男自身の手によって除幕されました。草田男は明治三十四年、中国の日本領事館で生まれ(お父さんが領事)、帰国後青南小学校に通いました。

この句は昭和六年、まだ学生の草田男が、小学校を訪問した際に詠みました。降る雪に、子どもたちの立派な外套姿を見た草田男は、時代の流れを痛感したのです。草田男は、着物に下駄履きで通学したのでした。

ここで草田男の代表句をご紹介しましょう。


万緑の中や吾子の歯生えそむる
蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ
葡萄食ふ一語一語の如くにて
冬の水一枝の影も欺かず


せっかく青山学院に学んでいるのですから、界隈の文学的な歴史や雰囲気を知らずに過ごすのはもったいない話ですね。

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