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六月十二日(土)に開催された二〇一〇年度日本文学会春季大会講演会では、東京大学大学院教授・多田一臣先生から「和歌の本質とは──巻十六から」という題でご講演を賜りました。
多田先生は万葉集・日本霊異記・更級日記など日本古代文学を広く研究されています。先生は古代の信仰や習俗を通じて、古代文学のことばに新たな光を当てて来られました。この三月には万葉集注釈書『万葉集全解』(全七巻、筑摩書房)の完成という偉業を成し遂げられていらっしゃいます。
ご講演では広い視野のもと、ことばを丁寧に読み解きながら、「歌」とは何かという日本文学の根本的な問題に迫られました。
先生は万葉集の中でも世俗的で”非万葉”的な巻十六の歌を取り上げました。巻十六には悪口を激しく言い合った贈答歌があります。先生はその呼吸を生き生きと捉え、非日常のことばの「歌」であるからこそ、悪口の応酬が笑いとなり、連帯感を生むのだと説明されました。
そして、古代では「歌」は自分を表現するものである以前に、相手に働きかけるものであったと説かれました。この働きかけに対して”返歌をしないものは口の無い虫に生まれる”、という狂言の中の興味深いことばも、狂言の節回しでご紹介くださいました(歌の呪力を和めるものが返歌であったのです)。長年狂言を嗜まれてきた先生の巧みで力あるお声には会場一同の拍手が鳴り止みませんでした。
さらに先生は「歌」の「心」に論を進められました。古代の歌が「景+心」という構造をとる理由を、「心」が外界によって意識されるものであり、外界の「景」が実は「心」そのものの形であったからと説かれる一方で、巻十六の、物が相互に関係なくただ並べられただけの「心(意味)」の無い歌を、高度な遊びであったと捉えられました。
「歌」は自明のものとして存在している「心」を表現するものでなく、「心」を立ち現すものであるという先生の結論は、文学についての私たちの常識を覆すものでした。古典の新しい見方を学んだ一時間でした。(編集委員)