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会報
第43号
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日文生随筆

大学院生活
博士前期課程一年 嘉村 雅江

大学院生って、何をするんですか? というのが、キャンパス内で偶然再会した後輩から一番多い質問です。この質問には、いつも「勉強」と答えます。実感として、それ以外の回答が思いつかないからです。
博士前期課程において必要な単位数は三十、授業数にして八授業を二年間で取得します。私が一年次に申請した授業は五授業、週三日学校に来ればすべて出席できる授業数です。しかし、実際はそう甘くなく、私は土日以外、時には土日も登校しています。図書館や日文研を利用するためです。
ほとんどの授業は演習形式です。発表のための資料を探したり、自宅ではできない作業、例えば資料のコピーや発表のレジュメ作りをしたりするために図書館、日文研は大切な場所です。また、研究会や学会など、授業以外にも発表の機会がありますので、どうしても学校に来る日が多くなります。発表がないときには、修士論文に向けて資料を調べたり、先生に相談をお願いしたりします。学んでも学びきれないというのが正直なところです。
しかし何より「勉強」させて頂いている、と思う時は、先生方の講義や先輩方の発表を拝聴するときでしょう。まったく思いつかない発想、丁寧に調べ上げた資料を見ると、このようにするのかと勉強になると同時に、もっと頑張らなければならないと感じます。また、先生方、先輩方からの指摘は非常に丁寧で、自分の至らない部分をはっきりと知ることができます。このように指摘していただけるのは、いまのうちだけなのだと思うと、一言も聞き漏らせません。

学問と勉強に打ち込むことができる期間というのは、実は人生の中では非常に短い期間なのではないでしょうか。大学院生活とは、その短い期間のなかでもさらに凝縮された「勉強」の期間であると感じています。もしこれから、一層日本文学を学んでみたいという方がいらっしゃるならば、大学院に進まれることを、是非にお勧め致します。

私の就職活動
4B 磯崎 真紀

就職活動の時期は、年々早くなっています。私自身も三年生になった頃から、漠然とした不安を感じ、ガイダンスに参加するようになりました。しかし、その頃は、自分が何をしたいのか分からず、焦ってばかりいました。夏休み、ある会社のインターンシップに参加し、自分自身について一から見つめ直しました。私は教員も将来の選択肢の一つだったのですが、インターンを通じて「教員ではなく企業で働こう」という思いがはっきりしたように思います。
後期になると、就職活動が本格化しました。業種や職種を問わずに多くの説明会に参加してみると、自分自身の軸が見つかり、自然と働きたい企業が分かるようになりました。私は、業界の異なる二つの会社に強く魅かれ、その二社については、第一希望の会社で四人、第二希望の会社で三人の方をOB訪問し、話を聞くように努めました。
最終的に就職活動を終えるまでに、八十社の説明会に参加し、三十五社の選考に参加しました。しかし、内定を頂けたのはそのうちの五社でした。書類選考の時点で落ちたり、第二希望の企業から不採用の通知が届いた時には、本当に落ち込み、とても不安になりました。しかし、最終的には、四月の終わりに第一希望の企業から内定を頂くことができました。
私が就職活動において、一番気を付けていたことは「友達と沢山話をすること」でした。就職活動は、周りの動きが気になり、不安になるものです。だからこそ、一人で頑張るのではなく、友達と協力して一緒に取り組む姿勢がとても大切だと思います。また、友達だけでなく、エントリーシートを先輩や社会人の方に添削してもらったり、家族に模擬面接をしてもらったりと多くの人に助けてもらいました。私が納得のいく就職活動ができたのは、周りの人の協力があってのものだと思います。これから就職活動をする皆さんも、周りの人と協力しながら、自分が納得のいく就職活動ができるように頑張って下さい。


介護等体験記
3A 飛田 貴基

2008年5月、東京都立墨田特別支援学校に2日間、そして8月、新宿区の細工町高齢者在宅サービスセンターに5日間、私は介護等体験として行かせていただいた。
特に特別支援学校という存在は、私が将来の目標として教職を目指すようになったきっかけであり、今なお興味を持ち続けているもの。当日は多くの素晴らしい体験と出会いを期待して臨んだことを覚えている。
どちらの体験も緊張と不安の入り混じる中で臨み、まずは指示を待っていたのだが、特別支援学校では担当した高校1年生の教室に入り、「とりあえずここにいて」と言われた直後に一人の生徒がいきなり奇声をあげて教室を出て行ってしまった。廊下を走り回り、そしてうずくまり何かを叫び続けている。私はその光景にただ驚きどうして良いかわからずに、先生方がどういう動きをするのだろうかと興味を湧かせて見ているだけであった。同じ生徒が幾度となく同じことを繰り返してもひたすら注意し続ける。根気と精神力の強さ。特別支援学校の教師を務める者にはこの要素が通常以上に求められると、最初の出来事で改めて感じさせられた。
障害児にもお年寄りにも共通して言えることは、始めのうちは距離があった人も時が経つにつれ心を開いてくれるようになり、一緒に学び、走り、歌い、笑いあえるようになったということ。生まれつき知能に障害がある人も、物忘れが激しくなってしまったお年寄りも、心で会話できる。最終日、笑顔で手を振ってくれた子、私の為にハーモニカを吹いてくれたおじいさん、感謝の気持ちでいっぱいである。
書きたいことが多すぎて纏まりのない文章になってしまったが、振り返ると何文字あっても足りないと感じる。今回体験に行かせていただいた施設には、体験終了後もボランティアとして行き、関わらせて戴いている。今後も、教職課程の実習の一つに留まらず、二つの施設の方々と関わっていきたい。今回の恵みに感謝を込めて。


教育実習について
4D 大木智沙音

6月に母校の高校に教育実習に行ってきました。
私が実習で担当した部分は三好達治「甃のうへ」と吉野弘「I was born」という詩の単元でした。
実習前に自分なりに「こんな教室活動をしよう」「こういった読み方をしよう」と準備をしたつもりでしたが、本当に実際教壇に立ってみると「つもり」であったことを実感しました。
第一の関門は、指導教諭に教案を見ていただいても、「とにかくやってみましょう」とのことでした。教案提出の時点での駄目出しが無い分、どの教案も一回目の授業は悲惨なものでした。しかし、生徒には申し訳ないものの、一回の失敗でどこが良くなかったかを自分で発見することができました。指導教諭の狙いはそこにあったようです。
第二の関門は、生徒の動きが読めないということです。生徒に発問をしたときに期待していた反応をするとは限りません。しかし、生徒が発言したことは国語では全て意味のあるものです。男性の孤独をうたった詩の印象を漢字一字で表現させたところ、自信満々で『肉』と書いた生徒もいました。
第三の関門は時間配分でした。単位制の高校であったため一時限が九十分という長丁場でした。生徒の集中力も切れてしまうのでメリハリをつけるということ、また学校祭前ということもあり短縮授業で七十分、六十分の授業で同じ内容をやらなければならなかったこともありました。
こうしたいくつかの関門を経て、副教材としての漫画の使用、詩を読んでの印象を漢字一字で表してもらう活動など、自分のアイデアを活かした授業作りが出来ました。
 指導教諭からのアドバイスで一番心に残った言葉は、「授業の準備はしすぎるということはない」という言葉でした。思い返せば作者の別の作品を鑑賞することも、自分自身の詩の内容に似た体験を思い起こすことも全て大切な準備でした。これから教育実習に行かれる方もぜひ、この「準備」を十分にしていかれたらいかがでしょうか。


可能性なんて 陳腐な言葉では
文3B 齊藤 優輝

体力の限界まで遊ぶことができる。大学に入って本当に良かったと思えることの一つだ。これは決して誇張したり大袈裟に表現したりしているわけではない。私たち大学生は、文字通り、腕を持ち上げる気力を失うまで遊びに没頭することができる。
常々思うことだが、大学生は小学生と似たような環境に置かれていると思う。小学校は特殊な環境だ。勉強する時間と余暇の区切りがぼんやりと現れ始めるが、勉強と遊びの境目はまだまだ曖昧だったように思う。休み時間のドッジボールや、放課後のクラブ活動、あのような経験を通して学んだものが多い以上、それらは「勉強」の一つと考えてもいい。反対に、国語の時間にみんなで短歌を作って発表しあったり、理科の時間に電池とモーターで動く車を競争させたりしたことは、「遊び」と捉えられるのではないか。中学、高校と進学するにつれ、「勉強」は限定的なものになり、「遊び」はゆっくりとそこから乖離し始めた。私たちにとって「勉強」とは、ある種の限定的空間や環境に於いてのみ効力を発揮する扱いの難しいツールセットとなっていった。 酔っ払いながら朝までかかって友達と共同の研究レポートを仕上げたことがある。なんて不真面目な、と叱られるかもしれない。とんでもない。大真面目である。夕方ごろから翌朝の四時まで、ぶっ通しで更級日記のことだけを考えて、語った。資料を嘗めるように読み、レポートの論旨を練り上げ、構成を工夫し、試行錯誤を何度も繰り返して文章を削りだした。その間たまたま酒が入っただけである。そんな作業が二週間ばかり続いた。楽しかった。これが勉強かと思った。これが勉強なら、遊びと同じだと思った。
就職活動、サークル、友人と過ごす時間、講義やレポートの作成、大学生活ではこれらがすべて同じ土俵の上にある。高校までの間、狭められ続けた「勉強」の幅は、大学で漸く本来の広がりを取り戻したのかもしれない。私たちは、つまりそれを「学問」と呼ぶのだろう。大学生の特権は、そこに全力でぶつかっていける時間を有していることである。私たちが真剣に学問と向き合い、格闘して生まれるものは、可能性なんてはるかに超えたものであると信じている。


時間の流れ
2D 本多沙由梨

今年の夏休み、少しだけ猛暑が薄らいできたころ京都へ旅行に行きました。微妙に観光シーズンから外れたのか観光者数はさほど多くなく、暑い日差しや時折不意打ちのように降ってくる雨すら楽しみながらゆっくりと観光することができたのですが、その京都で緑に囲まれた道をのんびり歩いたり、普段乗らないバスを乗り継いだりしてたくさんの寺や庭園をながめていると、なんだか不思議な感覚に襲われたのを覚えています。お土産を売っている大通りから少し外れた小道を歩いているときや、小洒落た喫茶店でお茶を飲んでいるときもずっとそうでした。そして夜行バスに揺られてやっと東京に帰り、ひとまずゆっくりしてからテレビをつけてニュースを確認したとき、やっと違和感の正体が分かりました。京都ではいつもと違った時間が流れていた気がするのです。もっと言うと、周りの時間の流れを無視してゆっくりと立ち止まり、後ろを振り向いている自分がいました。それが「バナナダイエット」、「事故米発覚」などの怒涛のようなニュースでふといつもの時間の流れに戻ったとき、懐かしさを覚えると同時に、私は少しばかりの喪失感も味わいました。
前を見据えて歩みを進めることももちろん大切ですが、たまには立ち止まってひっそりと私たちの後ろに佇んでいる、時間を止めた文化に向き合うことも人には必要なのではないでしょうか。そしてそれは「日本文学なんて研究して意味あるの?」という、自分自身も少しだけ疑問に思っていた問いの答えにも繋がる気がします。


日本語教育はじめました
1C 小林 優香

私は、日本語教育コースの授業を履修しています。私は日本語教師になりたいのです。二年後その目標は変わっているかも知れないけれど、とにかく今は、日本語教師になりたいと思っています。
何度か海外へ行ったことがありますが、そこで一番辛いのは合わない食事でも時差でもなく、「言葉の壁」でした。自分の意図を正確に相手に伝えられないというのは、とてももどかしい事です。その壁のせいで、予定していたことが出来なかったり、不本意な結果になってしまうことさえもあります。私などは、アメリカから日本へ帰国する飛行機の搭乗口が分からず、係員に質問しても彼の英語の説明がうまく理解出来ず、あやうく飛行機に乗り遅れるところだった、なんて経験もあります。まあ、これは単に私が方向音痴なだけかも知れませんが…。それにしても、ほんの数日の観光旅行の時ですら「言葉の壁」を痛感するのだから、仕事や家族の都合などで日本で暮らしている外国から来た方々の日本語の苦労は、並大抵なものではないだろうと察します。私は自分の経験もふまえて、そういった「言葉の壁」に悩む方々の手助けをしたいと思うようになったのです。日本語教師として。もちろん、それは大変な道です。日本語教育とはただ日本語を教えるだけではなく、事前に学習者のことを良く知って準備し、学習者の性格や置かれている環境などにも配慮しなければなりません。
まだ学習をはじめたばかりですが、とても奥深く、難しい学問だということはしっかりと分かります。だけど、同時にとても興味深い学問だな、とも思っています。日本人が当たり前のように使い分けている言葉や熟語でも、外国の方から見ればなかなか理解できない。そう言われて見れば、確かにこれは何でそういうのだろう?と思うような発見が沢山あるのです。
私はまだ、日本語教育という巨大な迷路の入り口をふらふらと彷徨っているに過ぎませんが、モチベーションの続く限り、一歩一歩模索していきたいと思っています。


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