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会報
第43号
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随筆

古要舞と両子寺
日本文学科准教授 大屋多詠子

昨秋、大分県の史跡をめぐる機会を得て、十月十二日、宇佐神宮の近く、中津市伊藤田の古要神社で「古要舞」を見た。昔は毎年太陰暦の八月十二日に宇佐神宮の放生会の行事の一つとして行われたものという。「古要舞」は人形劇で「傀儡舞」と「神相撲」の二部構成になる。舞台は、青竹で作った枠組みに藍色の幕を張り渡した簡単なもので、オドリコと呼ばれる人達が、幕の後ろから、幕の上に体長三十糎ほどの傀儡子を差し上げて操るのである。くぐつは六十一体あり、御祓をする神、獅子頭、小豆童子、鞨鼓・太鼓・笛等を楽する神、鉾・刀を持つ神、御幣持の神、お相撲人形などがある。
「傀儡舞」では、くぐつが一体、二体または四体ずつ交互に幕の下から登場する。軽やかなお囃子に合わせて、両手を上下に動かし万歳を続ける動作と、体を左右に振る動作を繰り返すが、そのぎこちない動きが可愛らしい。一方「神相撲」は、東西に分かれたお相撲人形が勝ち抜き戦で東西の勝負を争う。途中から西方の神々が連敗するが、横綱格の色黒の小さな住吉様が登場し、東方の神を次々と投げ飛ばす。最後は東方の横綱、色白背高の祇園様も敗れ、東方の神々が揃って住吉様に向かうが、住吉様が勝利して終わる。「傀儡舞」も「神相撲」も分かりやすく、誰でも楽しめる。
由来書に拠れば、「古要舞」のいわれは奈良時代に遡る。大隅・日向の隼人の謀反に対し、元正天皇が宇佐八幡に勅使を遣わしたところ、神が自ら隼人を征服するとの神託を得た。そこで官軍は神輿を率い、僧侶も加わっての遠征となったが、道中、神仏の奇瑞があり、菩薩が天降り、妙なる音楽や舞踊で隼人の賊軍を惑わした。千手観音の眷属の二十八部衆はお囃子に合わせてくぐつを操り、隼人らが我を忘れて見物するその後ろから攻めたてて悉く討ち滅ぼしたという。隼人の首を埋めたという凶首塚も宇佐神宮に到る勅使道の脇に残っており、凶首塚の近くには、「古要舞」のくぐつを清める際に使ったという化粧井戸もある。この隼人の霊を鎮めるために宇佐八幡は仏教との結びつきを深め、聖武天皇の神亀元(七二四)年に放生会を行ったのが「古要舞」の始まりという。

「古要舞」の起源からも窺えるが、宇佐八幡は神仏習合の発祥地と言われ、庇護下の国東半島一帯の寺院は、両子寺を中心に六郷満山と総称される。両子寺の開祖、仁聞大士も、隼人征伐に際し、祈祷をして朝廷を助けたといい、また「宇佐と六郷山は神仏一体で双子と同じである。また神道と仏教は蓋と匣と同じで、一日も離れるべきではない。…神仏守護の威徳によって、後世、他山は衰退しても、両子寺は繁栄するだろう」と予言したという。この仁聞大士についての伝承は、江戸の文化十二(一八一五)年、両子寺の住持、豪円上人に乞われて江戸の戯作者、曲亭馬琴が記した「両子寺大縁起」「略縁起」草稿に拠る。日光山の法会の次いでに、江戸の馬琴宅を訪ねた豪円上人は、寺の旧記の悪文憶説を直し、新たに縁起を書いてほしいと頼んだのである。明治の大火で両子寺では縁起・諸記録が失われたが、昭和になってこの馬琴による縁起の草稿をもとに復元されたという。その馬琴の顕彰碑が昭和六十一年に両子寺に建てられた。古要舞、両子寺と馬琴、不思議な縁である。

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