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会報
第41号
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卒業生だより

「火事場の馬鹿力。
毎日が修羅シュッシュシュ。」
小川 敬司

勤め先の会社で、今度発行する予定の新刊コミックスの企画書を書いていたら、小学生でも解るような漢字をド忘れしてしまった。こんなチョー簡単な字が書けないなんて……あうううう。俺は、確か、あの栄えある青山学院大学卒の日本文学士のはずなのに……

  そんな俺が、遠い遠い銀河の昔、2年も留年して苦労してやっとこさお情け卒業させてもらった我が母校の当時の学友でもある片山宏行教授から、『日文会報』に一筆寄稿せよとのお言葉をいただいた。近況報告、業界報告、後輩諸君への説教話でもなんでも、つれづれなるままに何でもいいから書いて欲しいとの事である……

  俺たちが渋谷キャンパスで学んでいた一九七〇年代終盤の頃というのは、未曾有の就職難の時代で、俺のいたクラスの中でも、四〇人いた希少な男子学生は、卒業後は、そのほとんどが中学や高校の国語の教師への道を選んだ。それでも、中には、果敢に荒野に出でて、天下のNHKのアナウンサーになった奴や、声優や人気ナレーターになった奴もいた。

  (出版業界というヤクザな修羅の業界に進んだのは、同期では、この俺だけだったようだ。余談だが、暴走族のツッパリ漫画やエッチな漫画の本を発行する出版社に勤めるこの俺は、久々に同窓会なんかに行くと、デモシカ教師になったかつての学友たちから、「教育者の敵」呼ばわりされる……クヤシ〜〜)!!

  まあ、そんな事はどうでもいいのだが、今のこの瞬間にも、渋谷や相模原のキャンパスのあちこちでは、日本文学科の現役学生諸君が青春の日々を謳歌している。

  彼ら後輩諸君に、僭越ながら、先輩からのささやかな助言とエールを贈りたい。

  がんばれ。楽しめ。本をもっと読め。漫画も読め。映画をもっと観ろ。いっぱい旅に出ろ。その旅も、外国だけでなく、もっと日本あちこちを回れ。

  そして、恋をし、友を大切にしろ。人をけっして裏切るな。もしも、キミが卒業後にマスコミ業界を目指すのであれば、重要なのは、漢字がスラスラ書ける事や、英語が喋れる事や、「A」の数やサークル活動や留学経験の有無なんかじゃない。

  マスコミ人に必要なのは、誰にも負けない「情熱」と、徹底した「集中力」……

  (自慢じゃないが、若い頃の俺は、原稿用紙一二〇枚の卒論を、着想から構成取材執筆までたったの十二日間で書き、締め切り一分前のギリギリで提出して卒業したのだ!

  その火事場の馬鹿力は、今も、自分の修羅の職業に立派に役立っているッ)!!

  青学日本文学科の後輩学生諸君、ガンバレ!

  修羅の道は辛いけど、楽しいぞ!!
((株)少年画報社勤務)

昔話
田中 洋

数えてみれば、大学入学以来もう三十年。時の速さには、呆然とするばかりです。当方、卒業以来神奈川県内の私立中高に奉職し、国語の教員をしています。数年前、思いがけず司書教諭を拝命し、勤務先では数万冊の書籍に囲まれて毎日を過ごしています。

  在学中は日文研や大学図書館を始めとして、図書館には本当にお世話になりました。

  確か大学に入学した頃だったでしょうか、大学の図書館が今の建物に移ったのは。お世話になった懐かしい図書館の当時のことを、おぼろげな記憶をたどりつつ書くことにしましょう。

  たまに訪れると隔世の感があるのは、何といっても国会図書館です。あの頃は、入館待ちも当たり前。カードや目録を何冊もひっくり返して目的の本を探し、請求するまでがまずひと仕事でした。現在書籍を扱っているカウンターでは雑誌と書籍双方を扱っていたほか、右側にはコピーの受付もあり、いつも何か騒然とした雰囲気でした。本が出てくるまでにも時間がかかりました。だからこそ、必要な記事を見つけたときの嬉しさは、格別なものでした。

  大学院在籍中には夜間利用のできる一般研究室のお世話にもなりました。当時は目録のコンピュータ検索などなく、中央カウンター周辺のカードボックスで検索したものですが、国の財政赤字のためか、そこの電気まで消された時期があったことを覚えています。

  一番お世話になったのは都立中央図書館。五階の特別資料室にうかがうことが多かったのですが、周辺の素晴らしい環境を含め、お気に入りの場所でした。通い始めたころは、愛育病院もまだ今の姿に改築される前だったと思います。大学からは、幼稚園横の門を出て日赤の横を下り、また坂を上って三十分ほど。お屋敷街をめぐるいい散歩道でした。まだ広尾の商店街にも古本屋が残り、日赤の前に、ポトフの美味しいごく庶民的な価格のレストランがあった頃のことです。以上、老いの繰り言と、どうぞお読み捨てください。

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