浅間山麓のこと
廣木一人
我が第二の故郷のことを語りたい。群馬県と長野県の県境に聳える浅間山の北麓、浅間高原と呼ばれている、標高千メートル余の溶岩台地である。浅間山の噴煙は多くの文学作品に描かれているが、有名な噴火は天明四年(一七八四)の大噴火である。観光名所、「鬼押出し」はその折のもので、現在の高原はほぼその時の溶岩・火山灰で出来ている。今は唐松・赤松・コナラなどの森で、土地はその腐葉土で覆われているが、二十センチも掘れば、赤い煉瓦を粉にしたような灰に突き当たる。大木も根を通すことができない。しかも、関東地方でもっとも寒い所の一つで、厳寒期には零下十五度になる。
このような土地に、戦後、これも劣悪な土地であった満州からの引き揚げ者が移住してきた。その人々は木を切り倒し、土を入れ換え、細々と畑作を行った。ようやく一息ついたのはキャベツ栽培や、観光業に活路を見出してからのことである。
この浅間高原が歴史上に登場するのは、鎌倉時代初期のことである。この原野は三原と呼ばれていた。ここで源頼朝が巻狩りを行ったのである。『曽我物語』などに建久四年(一一九三)のこととして記されている。
この高原は吾妻川によって、五百メートルの谷で切り裂かれている。その川沿いには古くから集落があり、大笹街道が通っている。この道は西に向かうと四阿山という山の肩を通って信あずまや州真田に出る。
吾妻という地名、四阿という山名は日本武尊の東国遠征の折、我が妻を偲んで「あづまはや」と叫んだということに因んでいる。これを信ずれば頼朝より遙かに古く日本武尊がこの辺りを訪れたということになる。因みに、この伝説によって、明治二十二年に嬬恋村という村名も生まれた。したがって我が故郷は現在、吾妻郡嬬恋村と呼ばれている。
先述の大笹街道は戦国時代に真田氏によって歴史上有名になった。真田氏は武田信玄側の武将として、この道筋を通り沼田まで支配した。真田幸村が大阪城で徳川と華々しく戦い散っていった少し前の話である。
古来、この街道を通った者には著名な文学者が多くいる。紙数が尽きたのでそれは別の機会にということにするが、このような話をしようと思ったのには、現在、我が日本文学科が、アメリカのコロンビア大学と研究提携を結び、文学とそれを生み出した環境というテーマで共同研究を始めようとしているからでもある。
文学が人種・歴史・風土等々と無関係に存在することはあり得ない。コロンビア大学とのことはいずれ機会を見て報告したいと思うが、我々だけでなく、学生諸君にも広範な文学のありようを探求してほしいと願っている。
日本文学会春季大会
講演:倉島節尚先生(立正大学文学部教授)
「辞書にみる文化史」
文学研究科 日本文学日本語専攻 M1 黒田真貴子

今年の日本文学会は、立正大学
文学部教授の倉島節尚先生をお招きしての講演であった。
先生は三省堂で三〇年もの間、国語辞典の編集に携わっていらっしゃったこともあり、今回の御講演も「辞書に見る文化史」という題目であった。
「辞書を引くことは、言葉に関する疑問を解決するヒントを得ることである。辞書の編集は、調べることと確かめること、この二つの繰り返しである。」とおっしゃった。ご自身の経験から辞書を作る側の苦労をよくご存知だ。
辞書、といってもその歴史は長い。天武天皇の時代まで遡ることができる。現存はしていないが、日本書紀によれば『新字(にいな)』という漢字辞書に類するものがあったようだ。それから九世紀末になると、『新撰字鏡』という部首別に配列された漢字辞書が成立する。和訓が振ってある辞書としては現存する最古の漢字辞書である。それから十世紀前半には『和名類聚抄』が成立する。こちらはただの辞書というより、百科事典的役割も果たしていた。
十二世紀には漢和辞書的性格を強めた『類聚名義抄』が成立する。『類聚名義抄』は十二世紀前半に原撰本が出来たが、後半には増補改編本がある。同じ辞書でも前半に出来たものと後半に出来たもので大きく異なる。前半成立のものは単語の下は漢文で説明が付いている。それに対し、後半成立のものはカタカナでの簡素な説明となっている。倉島先生はここで「この時代の漢字辞書は日本人の漢字との戦いの記録でもある」という風にご説明なさった。漢字の渡来は大体四世紀頃と言われている。中国語は語形変化が無いため、固定された漢字を使用する。しかし、日本語には語形変化がある。当時の日本人にとって漢字をどのように扱うか、ということは大変な困難であったに違いない。
『色葉字類抄』も同じく十二世紀の成立のもので、国語辞典の先駆的存在となったものである。なぜ、先駆的存在であったのか。それは、今まで部首引きで行っていた検索に対し、読みによって漢字を求める仮名引き漢字辞書であったからである。しかも、イロハ順に配列してある。これは、この当時、既にいろは歌が流布していたことを意味する。
それでは現在のような五十音分類にした辞書の最初はいつだったのか。それは一四八四年成立の『温故知新書』である。いろは順から遅れること三〇〇年のことであった。しかし、五十音順はいろは歌ほど浸透しておらず、再びいろは順に戻り、それが明治初年まで続いた。
他に、外国人が作った辞書が紹介された。一つは一六〇三年に成立した『日葡辞書』で、もう一つは一八六七年に成立の『和英語林集成』である。それぞれ時代は異なるものの、日本人では気付かないようなことまで載せられており、それぞれの時代の言葉がわかる。特に、『和英語林集成』は、初版が幕末のものであり、第二版、第三版は明治に入ってから出版される。それらにより、幕末の標準語と言えば、京都の言葉であったことがわかる。それが明治に入ると、首都は京都から江戸(東京)に移った。ゆえに第三版では、標準語というと東京の言葉ということがわかる。
そして一八八九〜九一年に刊行された、『言海』となる。次の例が出された。・サンタクロオス(名)SantaClaus.〔英語〕欧米ノ俗説ニ、耶蘇降誕祭ノ前夜、煙突ヨクリスマスリ下リ來リテ、兒女ノ沓、又ハ、沓下ノ中ニ、数種ノ贈物ヲ入レテ去ルト云フ、不思議ナル老人の稱。・デモクラシイ(名)Democracy〔英語民本主義、又ハ、民主主義ナドト譯ス〕下流ノ人民ヲ本トシテ、制度ヲ立テ、政治ヲ行フベシト云フコト。古ヘノ、所謂、下克上ト云フモノカ。
今の私達にはこの二語の解説に違和感を覚えるだろう。この二語の解説には製作者側の苦労を特に身近に感じた。江戸時代が終わり、急速に近代化が進んだ明治という時代には、様々な西洋の文化が入ってくる。その文化の中には言葉も含まれている。それらをどのように説明するか。今では当たり前のように使っている言葉でも、先人達の苦労があったからこそ、今がある。
このように、辞書一つでもそれぞれの時代の人間の営みを垣間見ることができるのである。倉島先生は「辞書は記録である」とおっしゃった。それぞれの文化の記録であり、編者の記録でもある。昨今では電子辞書という、道具としての辞書の利便性を追求したものが生産されている。確かに、道具としては便利である。しかし、記録としての辞書の側面から見ると、どうであろうか。今、私達が使っている辞書を、後世の人々がこの平成という時代を調べるために使うことが必ず出てくる。辞書が文化の記録としての側面を持つことを忘れてはならない。辞書という物が、時代を表す一つの文化であることを気付かされた御講演であった。