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研究余滴

ミニ授業です。

あかで別れし花の名
山本啓介(中世文学)

それほど有名ではないものの、印象に残る歌がある。
学生の頃に演習の授業でたまたま発表にあたった歌だった気がするが、
  桜浅のをふの下草しげれただ あかで別れし花の名なれば
               (『新古今集』・夏 待賢門院安芸)
もその一つで、初夏にふと思い出すことがある。
「桜麻」は麻の一種らしいが詳細は不明で、「をふ」は麻の生えているところ、麻の畑といった意味らしい。現代語訳すると、桜麻の下草よ、ただひたすら茂っておくれ、飽きもしないうちに別れた花(桜)と同じ名前なのだから、といったところだろう。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の反対で、春に散り別れた桜への愛惜の思いの深さゆえに、桜の花とは姿形もさほど似ていない、名前だけが似通った「桜麻」という夏草に茂って欲しいと願うもので、初夏の草木が茂る空気の中で、花の名残をしっとりと思う気持ちが表現されている。
知り合った人が、仕方なく別れてしまった恋人と同じ名だった時に、その人も元気であって欲しいなと願う気持ちとどこか似ているな、などと学生のころはぼんやり思ったりしたものである。
この歌の下句の「あかで別れし花の名」という表現が味わいを醸し出しているのだろう。
しかし、これを「飽きないうちに別れた…」と訳すと、どうも風情がない気がしていた。
とはいえ、当時はあくまで気楽な鑑賞だったので、深く考えることもなかった。


話は一度横道に逸れるが、現在は古典文学を研究している。
文学研究とは、どのようなことをしているのだろうかと疑問に思われることは少なくない。
研究と言っても様々な段階がある。
具体的には、くずし字で書かれた原書を探し出して、活字化する。
活字になっているものを読解して、意味の分かりづらいところに注釈を付け、現代語訳する。
そうして整えられた書物や資料を読んで、文学や時代や人を論じる、等々である。
この間まで、ある出版社の依頼で鎌倉前期の勅撰集『続古今和歌集』の注釈書を執筆していた。
その際に、問題の「あかで」の歌が登場してきて、これと向きあわざるを得なくなった。
『続古今集』の中には、
  久方のあまのとながら見し月の あかで入りにし空ぞ恋しき
                      (恋三 藤原実方)
などがあった。
これは作者実方が口説こうとした女性がたちまち家に入ってしまった後の嘆きを歌にしたもので、「あかで」には家の戸を「開けないで」と「飽かで」が掛かっている。
空の意味の「あまのと」に家の「戸口」の意を掛け、女を「見し月」にたとえて、それが「あかで入りにし」ことを恋しがるものである。
もっと話をしたかったという名残惜しい気持ちである。
訳は、心ゆくまで見ないうちに月が入ってしまった後の空が恋しいように、戸口で見かけたあなたが戸も開けないで入って隠れてしまったことが恋しいことです、とした。
ここでは「あかで」は直接的に訳さない形としたが、果たしてこれが最善であったかは悩ましい。 「あかで」「別れ」るという表現は古くから詠まれていた。
最も有名なのは紀貫之の、
  むすぶ手のしづくににごる山の井の あかでも人に別れぬるかな
                    (『古今集』・離別 紀貫之)
だろう。
詞書によれば、山越えの時に清水のところで言葉を交わした人と別れる際に詠んだもので、歌を訳すと、すくう手から落ちる滴で濁ってしまって少ししか飲めない山の清水のように、飽き足りない思いのままであなたとお別れしてしまうのだなあ、といったものである。
たまたま出会った知人と別れる際の名残惜しさを「あかでも」と表現している。
この他に類似した表現として、
  朝戸あけてながめやすらん七夕は あかぬ別れを空にこひつつ
                    (『後撰集』・秋上 紀貫之)
など「あかぬ別れ」といいうものもある。
この歌は、年に一度の織姫と彦星の逢瀬の後の、別れの名残惜しさを想像したものである。


これらの「あかで」「あかぬ」は、注釈書ではだいたい「飽きないうちに」「飽き足らないうちに」「名残惜しいままで」などと訳されている。
注釈書はスペースが限られているため、くどくど説明する余裕はない。また、可能な限り原文に近い逐語訳をすべきなので、意訳も避けなくてはならない。 書物にまとめる際には、どうしてもこのような訳になってしまう。


そもそも花を眺めるにしても、人と愛を語らうにしても、それが終わってしまったからこそ名残惜しく思われるのだろう。
ずっと続いていたら、いつしか飽きて印象に残らず、詩歌とはならない。
終わってしまった後に、対象への尽きない名残を思うからこそ、「あかで」なのである。
不思議なことに、古文のなかでの「あかで」にはそうした諸々のニュアンスが含まれている感じるがするのに、現代語に置き換えると、それらが失われてしまう気がする。
どうにかしてこれを端的な現代語に訳すことはできないものか。
大学での講義や演習の際にはこうしたことをあれこれ話したりできるのだが、原稿には紙幅の限界に加えて、締め切りもあるので、結局すばらしい訳も思いつかないままになってしまった。
とはいえ、どうすれば原文の風情を失わない訳ができるのか、あれやこれやと考え続けることも、飽きることのない仕事の一つである。