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研究余滴

ミニ授業です。

夏目漱石『こゝろ』
日置俊次(近代文学)

夏目漱石の『こゝろ』

『こゝろ』は夏目漱石の長編小説で、高校生の必読書ともいわれていますね。この『こゝろ』について、その刊行にまつわるエピソードをお話しましょう。
ところで『こゝろ』は『心』と書かれることもあります。いったいどちらの題名が正しいのでしょうか。
まず、大正3年9月に刊行された『こゝろ』初版本の序文から引いてみましょう。

『心』は大正三年四月から八月にわたって東京大阪両朝日へ同時に掲載された小説である。
当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』という標題を冠らせる積(つもり)だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とうとうその一篇丈(だけ)を単行本に纏めて公けにする方針に模様がえをした。

ここに説明されているように、漱石はさまざまな短編を書くつもりでした。最初に新聞に発表された段階では「心 先生の遺書」という題名で連載されています。つまり、「先生の遺書」という短編に、ほかの短編を合わせて、「心」という短編集を作ろうと思っていたのです。しかし、「先生の遺書」の物語が1つの長編へと成長してしまいました。
さて、上に引用したように、単行本の序文でも「心」という漢字が用いられています。このように執筆計画には変更がありましたが、「心」という言葉に漱石が執着していたことは間違いありません。 『心』広告文(「時事新報」大正3年9月26日)でも、漱石は次のように書いています。

自己の心を捕えんと欲する人々に、人間の心を捕え得たる此作物を奨む。

この単行本の表紙には『康熙字典』の「心」の項からの引用文があります。この辞典は清の康熙帝の勅撰によって編纂された漢字辞典ですので、引用文には、当然、漢字しか載っていません。したがって「心」という漢字が、単行本の表紙にも記載されているわけです。

しかし作品の本文は、「こゝろ」とタイトルが付されて始まっておりますので、やはり正式なタイトルは『こゝろ』だと考えるべきでしょう。「こゝろ」とひらがなにした方が、やわらかい、やさしい、あるいは身近な感じがしますね。
表記から「ここ」という音も見えてきます。どこでもない、いま「ここ」にある、この自分の「こころ」という感覚が生まれて来るかもしれません。

さて、この初版本を開くと、見返しの裏にars longa, viva brevis.(芸術は永く、人生は短い)の朱印がありますが、この朱印や、扉、奥付などの模様、そして本の装幀も漱石自身が手がけました。

すこし唐突ですが、ここでしばらく岩波茂雄という人物にまつわる話をしておきたいと思います。
彼は長野の諏訪の人です。上京して第一高等学校を卒業しました。その後、故郷に戻って田畑を売りました。こうして作った資金をもって、朝日を浴びる八ヶ岳を見上げつつ、再び上京したといいます。
彼は大正2年、神田神保町に古本屋を開きます。これが岩波書店です。翌年、大正3年に夏目漱石の『こゝろ』を刊行し、出版業に進出しました。漱石は当時大作家でした。無名の古本屋が漱石の作品を出版するのは、異例のことです。
「朝日新聞」連載の「心」に感動した岩波茂雄は、漱石に会って、涙ながらに出版を懇願しました。その真率な心に感じた漱石が、とうとう了承すると、彼は「出版費用も出してください」と言ったそうです。なんと漱石はその申し出も引き受けました。漱石は、岩波の「心」に感動したのかもしれません。

『こゝろ』は、岩波書店刊とはなっていますが、本当は漱石の自費出版でした。漱石が本の装幀まで引き受けたのは、岩波を助けようという気持ちがあったのでしょうか。またそこには、漱石の美術に対する並々ならぬ関心や、駆け出しの素人の出版社に任せられないという気持ちもあったはずです。また、これが全部自分の資金による自分の手作りの本なのだという意識が働いたせいもあるでしょう。
『こゝろ』の装幀は、斬新なオレンジ色の地に漢字の文様が入っていて、深みのある魅力的なデザインとなっています。これは周の岐陽の「石鼓文」といわれるものです。中国にいた橋口貢が漱石に送った拓本の文字を使ったといいます。

漱石は大正5年に亡くなります。岩波書店は『こゝろ』の装幀をそのまま用いて、『漱石全集』を刊行しました。この『漱石全集』の人気によって、岩波書店は飛躍するのです。
いってみれば岩波版『漱石全集』は、漱石自装であるということになります。

死後に発刊されることになる自分の全集を、自分で装幀した作家は、なかなかいないでしょう。『こゝろ』という作品にはさまざまな謎がありますが、またその出版には、作者を含むさまざまな人々の揺れ動く心模様が、込められているのですね。