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研究余滴

ミニ授業です。

日本語研究の大海原へ
澤田 淳(言語学、日本語学)

  日本語研究とは、もちろん、日本語について研究することですが、それに対しては様々なアプローチが可能です。日本語母語話者としての直観を最大限生かしながら、現代日本語の文法や意味について分析したり、萬葉集や源氏物語などの歴史的資料をもとに、時代ごとの日本語の構造や、時代の間に見られる日本語の歴史的な変化について分析することは、日本語研究における代表的なアプローチといえます。また、日本列島各地の方言の調査に出かけ(あるいは、自分自身の方言の内省によって)、方言の語彙や文法などを記述したり、日常の様々な談話を録音して、日本語談話の特徴について分析することも、日本語の研究です。ときには、英語や朝鮮語などの外国語にも目を向けて、日本語と比較対照してみることで、日本語の特質がより鮮明に見えてくることもあるでしょう。
  ここで、日本語研究の具体的実践の一例として、日本語の「行く」と「来る」の分析を取り上げてみましょう。

  話し手が発話時に到着地にいる聞き手のもとへと移動する場合、通例、日本語では「行く」、英語では come が選択されます(「*」は不適格性を示すマーク)。

(1) A:太郎、ちょっとこっちに来てくれる?
B:今、{*来る/行く}よ。
(2) A:John, would you come here, please?
B:I’m {coming/*going}.

  しかし、日本語方言の中には、(1)の共通日本語とは異なる振る舞いを見せる方言があります。沖縄、九州、山陰の一部(島根など)、北陸の一部(富山、石川など)の方言地域では、聞き手領域への話し手の移動を「行く」でも「来る」でも表せます。次は、島根県出雲方言の例です。

(3) A:今から、こっちに来んかね?
B:そげなら、すぐ{行く/来ー}けん。待っちょって。  (出雲方言)

  「来る」の方言用法の運用地域は、日本列島の方言を東西に大きく分けた場合の西側地域の一部に限られ、東側地域(関東や東北など)での使用の報告はありません(「来る」の特殊用法の方言分布は、方言学でいう「東西対立」の分布を示しています)。

  平安時代の中央(主として京都)における日本語を反映する中古和文と呼ばれる歴史資料(源氏物語など)を調査してみると、この時代の中央日本語では、聞き手領域への話し手の移動に対して、「行く」、「来」のどちらも使用できたことがわかります。以下の2例は、平安中期の歌物語である『平中物語』からの用例です。
  (4)では、話し手(手紙の書き手)である男の、聞き手(手紙の受け手)である女のもとへの移動が「行く」で表されています。

(4) さて、「なほ、いかむ」とあれど、また、えあはでやみにけるに、もと来し男も、来ずなりにければ、女、かののちの男にいひやる。
【現代語訳:(男は女に)「でもやはりお伺いします」と文をやったけれども、】
(平中物語・二十九段)

  次の(5)では、話し手である男の、聞き手である女のもとへの移動が「来」(正確には「来」の謙譲語形「参り来」)で表されています。

(5)「などかさてはものしたまふ。早う来や」といひたければ、いま参り来む。この前栽の、いとおもしろく、くまぐましき、見るなり」といひてぞ、立てりけるに、そこの法師のがり、間どもなく人やる。
【現代語訳:「どうして、そんなふうにしていらっしゃるのですか。早くおいでなさいよ」といってよこすので、「いますぐ参りますよ。この植込みがたいへん結構で、物陰の多いのを見ているのですよ」といって、】
(平中物語・十七段)

  古代中央日本語は、先に見た西側地域の一部の諸方言と同様、聞き手領域への話し手の移動において、「「行く・来る」併用型」の運用システムであったことがわかります。西側地域の一部の諸方言で見られる「「行く・来る」併用型」の運用システムは、古代中央日本語の運用システムの残存とみなせるのです。
  一方、現代共通日本語(さらには、古代中央日本語の末裔である現代京都方言)では、聞き手領域への話し手の移動に対しては、(1)の例で見たように、「行く」のみが使用されます。日本語は、(話し手・聞き手の)対話者間での移動において、移動動詞「行く/来る」の運用システムを単純化させたことになります。

  さて、以上の事実を踏まえたうえで、古代中央日本語における「行く」と「来」の選択について、もう少し踏み込んだ考察をしてみましょう。次の例をご覧ください。

(6)女のもとより、詞はなくて、
君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか
【現代語訳:あなたがおいでになったのか、私が伺いましたのか、判然といたしません。いったいこれは夢でしょうか、目覚めてのことでしょうか】
(伊勢物語・69段)

  ここでは、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」という対立的な双方向の移動が描写されていますが、前者には「来」、後者には「行く」が使われています。上で確認したように、「話し手から聞き手への移動」には「行く」と「来」のどちらも使えるのですから、ここでも「来」が使われてもよかったはずです。しかし、少なくとも、中古和文の調査資料に関する限り、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」の双方向の対立的な移動が描写されている用例で、「話し手から聞き手への移動」に対して「来」が使われている用例は確認されませんでした。たまたま「来」が使われなかっただけなのでしょうか、それとも、何らかの理由で「来」の使用が抑えられたのでしょうか。古代語のデータからでは、そのどちらであるかを判断するのは困難です。

  そこで、同様の対立的な移動状況における日本語方言(ここでは、島根県出雲方言)と英語の移動動詞の運用状況に注目してみることにしましょう。 興味深いことに、出雲方言では、このような対立的な移動が示された状況では、「話し手から聞き手への移動」に対しては、「来る」よりも「行く」が選好されます。出雲方言話者に対して質問調査を行ったところ、次のような例では、「来る」は不自然であり、「行く」の使用が自然であるとの回答を得ました(よって、(7)の「来る」には「??」を付してあります)。このインフォーマントは、(3)のような「来る」は全く自然である(よく使う)と回答しており、方言用法の「来る」を運用する話者です。

(7) おまえがこっちによう来んなら、おらがそっちに{行く/??来ー}けん。
(出雲方言)

  英語母語話者に対する調査でも、同様の回答が得られました。アメリカ英語のインフォーマントに次の例を提示したところ、このような状況では、 come は不自然であり、 go の使用が自然であるとの回答を得ました。よって、 come には「??」を付してあります((2)では、 come のみが適格である点と比較してみてください)。

(8) (on the phone) If you can’t come here, I’ll {go/??come} there instead.

  島根方言や英語では、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」とが対立的に描写される状況下では、「話し手から聞き手への移動」に対して「来る」、 come の使用が抑制され、「行く」、 go が選好されるという興味深い事実が存在するのです(話し手と聞き手の間の双方向的移動が示されると、話し手と聞き手の視点対立が鮮明となるため、双方向の移動が go と come で表し分けられるのでしょう)。同様のことが古代語でも生じていたと考えるのは自然です。
  古代中央日本語では、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」の両方が対立的に描写されている状況下では、前者の移動には「来」、後者の移動には「行く」が用いられ、後者の移動に対しては「来」の使用が抑制されていたのです。このような特別な対立的移動の状況を除いては、「話し手から聞き手への移動」に「来」を用いることができたのは、(5)の用例が示す通りです。

  以上、「行く」「来る」を例に、日本語研究の実践の一端を見てきました
  日本語の研究は、深くて、広いものです。私自身にとってもそうであったように、皆さんにとって、日本語の大海原への航海が、かけがえのない学生時代を実り豊かなものにする、多くの発見と知的興奮に満ちたものであると信じています。

注 より詳しい内容について興味を持たれた方は、拙稿「日本語の直示的移動動詞に関する歴史的研究―中古和文資料を中心に―」(KLS. 2012年、32号、pp. 97-108、関西言語学会)をご覧になってみてください (論文は、こちら からダウンロード可能です)。