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研究余滴

ミニ授業です。

『古事記』はどのように書かれたか
矢嶋 泉(上代文学)

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文学史や日本史の教科書には必ず『古事記』という書名は載っていますし、小中学生向けの歴史系漫画シリーズにも編纂に関わったとされる太安萬侶や稗田阿礼の活動が描かれていたりしますから、『古事記』という作品名は皆さんもご存じでしょう。でも、実際に『古事記』を手にとって読んだことがあるという人は、意外に少ないのではないでしょうか。もちろん、高校の古典の教科書の中にはヤマトタケルやスサノヲの物語を載せているものもありますので、内容の一部に触れたことがあるという人は多くいるはずです。でも、ここで皆さんと観察してみたいと考えているのは、著名な学者の手によって漢字・平仮名まじりの訓読文に改められた姿ではなく、『古事記』本来の文字状況(原文)なのです。

では、『古事記』の原文はどのように書かれているのでしょうか。

  上此五  
尓天神之命以布斗麻迩尓   卜相而詔之因女先言而不良亦還降改言…
  字以音  

引用したのはイザナキ・イザナミ二神の〈国生み神話〉の一節です。天つ神から国作りを委任されたイザナキ・イザナミ二神は生殖行為を通じて国土を産み成そうとしますが、結婚に際して儀礼的手順を誤ったために失敗児を産んでしまいます。そこで天上に戻って天つ神に相談すると、天つ神は占いによって原因を探り、二神に改めて指示を出します。引用文は天つ神が占いをして二神に指示をする場面です。

さて、わずか34字の情報にすぎませんが、原文には解読の補助となる句読点がありませんので、内容を理解するのはなかなか難しそうに見えますね。でも、『古事記』は次に示すような一定の記述方針に基づいて書かれていますので、その方針さえ理解していれば解読につまづくことはまずありません。

  1. 漢字の訓を利用して表意的に記述するのを原則とする。
  2. 文を任意の単位(多くは小句単位)に区切り、漢文の構文を利用して書く。
  3. 文の形式は漢文の形式を利用して書く。

まずiiiから見てゆきましょう。たとえば引用文冒頭の「尓」字は、漢文の助辞を利用して前文とのつながりを示す接続語「シカクシテ」(後のシコウシテ)を表したものですが、同時に文頭の位置を示す機能をももっています。『古事記』の文頭には「於是(ここに)」「然(しかあれども)」などといった接続語がうるさいほどに記述されていますが、こうした措置は文と文との間の関係性を示すとともに、文と文との切れ目を示す句読点のような機能も負っています。文末にしばしば置かれる「也」「焉」「哉」などの文末助辞も、文のニュアンスを示すだけでなく文末の位置を示す機能をも負っているのです。『古事記』が漢文的な形式を利用して書かれているのは、こうした利点があるからなのです。

iiに示した問題もiiiと不可分な関係にあります。漢文の形式を利用して文と文との関係を示したり、文と文との切れ目の示したりすることで、文章の枠組をナビゲートするというのが基本方針ですから(iii)、日本語の記述を目指しているとはいえ、実際には『古事記』の文章は大きく漢文に依存しているのです。だから、文やその下部単位である句の記述に際しても、多くの場合、漢文的な構文が利用されています。先の引用文でいえば「因女先言(女先づ言ひしに因りて)」や「不良(良くあらず)」の部分がそうです。

どうしてこうした非日本語的な構文が多用されるのかというと、一つにはiiiで確認した記述方針との関係が考えられます。たとえば「良くあらず(良からず)」を日本語の語順どおりに記述すると「良不」となりますが、漢文的な枠組を利用することで成り立つ『古事記』中に、ここまでべタな日本語の語順どおりの文字列が現れたら、読み手は混乱するのではないでしょうか(多くの読み手は「不」の下に現れる用言を探して「不──」のように返読して理解しようとするでしょう)。『古事記』は漢文の知識を読み手と共有していることを前提として書かれているわけですから、漢文的な構文を利用して「不良」と書く方が、かえって正確に内容を伝えることができるのです。しかし、全面的に漢文で書いてしまえば、それはもはや中国語への翻訳と異なりません。結局、『古事記』が採用したのは、日本語の文を適当な単位に区切り、句の順序は日本語に従って連ねつつ、各句は漢文的な構文を利用して記述するという方法だったのです。こうしたスタイルを一般に変体漢文とか和化漢文とか呼んでいるわけですね。

iもまたii iiiと同じ方針に基づくものといえます。日本語で書かれているとはいえ『古事記』の文章は漢文的な形式(iii)、漢文的な構文(ii)を積極的に利用することで成り立っているわけですから、日本語の音列をそのまま再現することはそれほど重視されているわけではありません。日本語の音列面をそのまま文字で表す方法は、当時すでに発明されていました。表意文字である漢字の本来の意味(訓)を無視し、音(オン)のみを羅列する方法です(一般には音仮名といいます)。たとえばヤマは漢字の訓を用いて書けば「山」ですが、音を利用して「夜麻」「也末」などと書くこともできます。しかし、『古事記』の場合、こうした方法は歌謡を除けば、あまり用いられることはありません(歌謡の書き方が異例であるのは、日本語で歌われていることを重視したものと考えられます)。

記述方針の説明が少々長くなりましたので、話を引用文に戻すことにしましょう。この引用文も、ここまでに説明してきた基本方針にそって書かれていますが、第七字目以下の五文字「布斗麻迩尓」は、実はその方針から外れた例外的な方法が採用されています。引用文の中ほどに「此五文字以音(此の五文字は音を以〈もち〉ゐよ)」という注記が施されているように、ここは漢字の訓ではなく、音(オン)を利用した音仮名でフトマニニという日本語の音列がそのまま書かれているのです。

では、どうして基本方針にしたがって訓で書かれていないのでしょう。その理由は簡単です。ここには漢字の訓を利用して表意的に表しにくい言葉が含まれているからです。文脈上、天つ神が占いをする場面ですから、ここは「フトマニという卜占の方法で」といった意味であることは推測できますが、ではそのフトマニを漢字の訓を用いて表意的に表すにはどうすればいいでしょう。「占」や「卜」では単なるウラナヒの意味と理解されてしまいそうです(そもそも単なる卜占の意味であれば、引用文中の「卜相(ウラナフ)」を始めとして、「卜(ウラ)」「卜(ウラフ)」「占合(ウラナフ)」などの例が『古事記』中には見られますので、そのように書けたはずです)。フトは立派なの意を表わす接頭語で「太」と関係がありそうですが、『古事記』では表意的に「太」の字で表された例はありません。さらに問題なのはマニです。意味的には「卜」や「占」などの文字と関係がありそうですが、先に示したように『古事記』中には「卜」や「占」をマニと訓むべき例はありませんので、読み手がマニと訓んでくれる可能性は限りなくゼロに近いといっていいでしょう。「布斗麻迩尓」という例外的な記述は、訓を用いて表意的に表すことができなかったために次善の策として日本語の音列を音仮名で記述したものと考えられます。

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さて、皆さんといっしょに観察したかったのは、その先の問題です。名詞フトマニが音仮名を用いて「布斗麻迩」と書かれた関係で、普通は音仮名で書かれることのない格助詞ニが「尓」という音仮名によって文字化されることになりました。基本的に漢文の形式・構文を利用して書かれる変体漢文では、通常、中国語には存在しない助詞や助動詞は文字として表されることはありません(たとえば「行山(山ニ行く)」「飲水(水ヲ飲む)」などのように、格助詞ニ・ヲは動詞+目的語という漢文的構文中に潜在する形で表されます)。『古事記』の場合、格助詞ニは「於─」という反読構文によって表されることもありますので、ここも「於布斗麻迩尓」と書くことができそうですが、問題はそれほど単純ではありません。一般に「於」はオの音節を表す音仮名としても広く用いられる文字なので(「於」が平仮名「お」の字母であることを知れば納得できますね)、「於布斗麻迩尓」と書くとオフトマニニと訓まれてしまう可能性も出てくるのです。

ここではフトマニニという日本語の音列を示すことが重要であるわけですから、別の読み方ができるような記述は避けるにこしたことはありません。しかし、漢文的な「於─」構文を利用しない場合、「布斗麻迩」という名詞だけを文字化しても格助詞ニは読み手には伝わりませんので、ここはどうしても格助詞ニまで音仮名で文字化する必要があるところといえます。その結果、音仮名で表された五音節の第四音節と第五音節に同音のニが連続することになりました。そもそも、ここはフトマニという名詞を表意的に文字化することができないために、次善の策として音仮名による記述方法が採用された箇所ですから、読み手には書かれた音列の意味する内容がよく理解されない可能性のある箇所です。ここまで第五音節は手段・方法を表す格助詞ニであるという前提で説明して来ましたが、表意的な記述を断念した記述方法で書かれている以上、実はフトマニニの五音節がどういう語構成になっているのかは、示された音列からは分からないのです。

しかし、ここに示した引用文には、そうした問題を乗り越えるための手段が講じられているのです。まず、「布斗麻迩尓」の五音節のうち、第四音節と第五音節が異なる音仮名で書かれていることに気づきませんか。これは意味なく異なる音仮名が用いられているわけではなく、「布斗麻迩」の第四音節ニと第五音節のニとが異なることを──「布斗麻迩」という四音節とそれに続く「尓」とが不連続であることを──音仮名の違いによって示そうと意図した用字法なのです(「布斗麻迩迩」と書かれていれば、等質の音仮名による連続した文字列と意識されるでしょう)。つまり例外的な音仮名による記述によって表されてはいるけれども、「布斗麻迩」と「尓」とに分節される文字列というわけです。

その上で先ほどペンディングにした注記「上」の示す意味を考えてみましょう。平安朝に作られた『類聚名義抄』という漢和辞典などによって、格助詞ニは古くは上声に発音されたことが分かっています。この場合、「尓」字に付されたアクセントの注記が示す意味は実に重要であることがわかりますね。表意的に記述することを断念したと見られる「布斗麻迩尓」の文字列ですが、第四音節と第五節音節を異なる音仮名で書くことで「布斗麻迩」と「尓」とが不連続であることが読み手に理解できるように配慮されており、しかも第五音節に上声に発音すべき注記「上」を施すことで、それが格助詞であることを示そうとしているのです(もちろん当時は格助詞などという呼称はありませんでしたが)。

太安万侶の日本語に対する深い洞察力と読み手に対する繊細な配慮──ちょっとした感動をおぼえませんか。

(注)引用文を訓読すると次のようになります。
尓(しかく)して、天神(あまつかみ)の命(みこと)以(も)ちて、布斗麻迩尓(フトマニに)卜相(うらな)ひて詔(みことのり)したまひしく、「女(をみな)先(さき)に言(い)へるに因(よ)りて良(よ)くあらず。亦(また)還(かへ)り降(くだ)りて改(あらた)め言(い)へ」…。