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研究余滴

ミニ授業です。

<やまとことば>と物語
土方 洋一(平安文学)

川端康成の小説『雪国』は、東京から来た島村という男と、雪国の芸者駒子と葉子との交情を描いた物語です。その有名な冒頭は、次のようなものです。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

島村が雪国に到着する場面で、この時島村は、同じ列車に乗っていた葉子と出会うことになります。

この引用部分だけではわかりにくいかもしれませんが、『雪国』の冒頭は島村という人物の視点で描かれています。ずっと列車に揺られてきて、長いトンネルを抜けたとたん、まるで別世界に来たように一面に雪が積もっていて、背後に置き去りにしてきた日常の世界との感じの違いに驚いているという感覚が、島村自身の内面の感覚として描かれているため、小説を読んでいる私たち読者は、いつの間にか、自分が汽車に乗ってたった今雪国に到着したかのような印象を抱きます。

この冒頭の文章を、エドワード・サイデンステッカー氏は次のように英訳しています。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

一見、忠実な翻訳のように見えますが、原文と英訳とを比較すると、ずいぶん感じが違います。英訳では、冒頭の部分が、「汽車は長いトンネルを抜けて雪国に入ってきた」というような文章になっています。つまり原文では、汽車に乗っている作中人物(島村)の側から雪国に到着した時の気分が表現されているのに対して、サイデンステッカー訳では、「汽車が雪国に到着した」という客観的な事実を伝える表現になっているのです。

サイデンステッカー氏の英訳が不正確だとあげつらっているわけではありません。先にも述べたように、この物語の冒頭は、島村という人物の主観に寄り沿った記述になっていて、形式的には三人称だけれど、実質的には一人称に近い表現になっています。だから、読者である私たちは、自分が島村という人物になって物語の世界に身を置いているような気持ちになるのです。日本語を母語とし、日本語で書かれている物語を読み慣れている人ならば、まず間違いなくそのような読み方をすることでしょう。

しかし、そのような三人称なのか一人称なのかが曖昧な表現は、どうやら英語にはうまく移しかえることができないようで、英語で表現する場合には、列車が雪国に到着したという出来事として客観的に記述することしかできないらしいのでtす。

意外なことに、これに似た文章は、うんと古い時代の、たとえば『源氏物語』のような物語の中にも見出すことができます。

次の文章は、桐壺巻の中の、靫負命婦という人が、天皇の使いとして、亡くなった更衣の里邸を弔問する場面です。古典の教科書によく採られている場面なので、教室で習ったことがあるという人も多いと思います。

命婦、かしこにまで着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇にくれて臥ししづみたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる。

「命婦」という主語が出てきますが、文末で「あはれなり」と感じているのは誰でしょうか。

「命婦が、里邸の荒廃した様を見てあわれに思った」という意味ではなさそうです。更衣の里邸の荒れ果てた様子を目の当たりにして、胸を衝かれている命婦の心情が、命婦の側から表現されているのではないでしょうか。作中人物である命婦の眼と心を通して情景が語られているので、読んでいる私たちもまた、いつの間にか自分が命婦になり、荒廃した更衣の里邸を目の前にしているような、強い印象を受けることになるのです。

ここで取り上げた二つの場面に共通しているのは、三人称で書かれているのに、叙述の視点が作中人物の眼と心に同化していて、その結果、読者である私たちも物語の世界の中に入り込み、自分自身がその場の雰囲気を体験しているかのような感覚にとらわれる、ということです。そのことは、書かれている対象であるはずの作中人物が、純粋な対象(object)ではなく、語っている主体(subject)と地続きになってしまう場合があるということを意味しています。

こうした表現は、『源氏物語』や『雪国』に限ったことではなく、日本語で書かれた多くの物語に共通してみられる現象であり、しかも英語やフランス語といった他の国の言語には翻訳しにくい表現であるようです。そのことから考えると、これはおそらく、主語が曖昧であるとか、「た」や「けり」が必ずしも時制の表現ではないというような、日本語(やまとことば)が言語として持っている性質と密接に関係していることなのではないかと思われます。

日本語が持っている特質がどのような表現効果を生み出し、それがどのように私たちを感動させてくれるのかという仕組みがだんだんわかってくるのは、わくわくするような体験ではないでしょうか。