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研究余滴

ミニ授業です。

思案投げ首
片山宏行(日本近代文学)

  ここしばらく厄介なモノを抱えている。ある著名な作家の直筆原稿である。

  すでに七〇年ほど前に物故した人物で、大正~終戦直後の日本文学界に幅広く活躍し、多方面に大きな影響力を持った文学史上欠くべからざる文学者である。

  わたしがこの作家に興味を持ったのは今から三〇年ほど前で、当時はまだ研究者のあいだでも等閑視されていた感があったが、近年になって、その人と文学について研究が進み、再評価されるようになった。とは言えまだ手つかずの沃地が残されている。この勢いはしばらく続くだろう。

  さてそんなおり、本郷にある老舗古書店から分厚い古書目録が届いた。その写真版のなかに、くだんの原稿が掲載されていた。冒頭とおぼしき一枚と、同時に添えられたと思われる挿絵が一葉、カラー写真で紹介されていた。作品名と簡単な説明がある。「四〇〇字詰め原稿用紙63.5枚の完全揃い。全集未収録」「金森観陽の挿絵17枚」とある。記憶にない作品名だ。枚数も多く、しかも「揃い」で「挿絵つき」。本当だとするとちょっとした事件である。さっそく古書店に電話を入れて、ただちに実見におよんだ。まちがいなく本物であった。

  ここで「まちがいなく」と断言するとき、何を根拠にそう言うのかとよく人から聞かれる。たしかに生原稿の真贋を科学的に証明できるわけではない。せいぜい愛用の原稿用紙を用いているかどうかぐらいが物的証拠だろう。したがってこれを簡単にいうならば同じ作家の文字を長年見てきた「勘」であるとしか言いようがない。とはいってもそれなりの押さえどころはある。

  まず字体、用字、文体といったその作家独特の「くせ」を確認する。字体は年齢や筆記具によって多少の違いはあるが、用字、文体という部分はいわば作家それぞれの生理であって、一生を通してそうちょこまかと変わるものではない。ことに文体はそうである。ためしに好きな作家の作品をたんねんに書き写してみるといい。村上春樹の文体は決して村上龍のそれではないし、高村薫と北村薫はまったく別個の存在だということがわかるはずだ。

  また直筆原稿ならではの決め手として「訂正」の痕跡がある。つまり文章の修正・補筆のしかたである。ある作家は訂正個所をザクザクと二本線で豪快に<見せ消ち>のように消す。が、別の作家は一文字一文字ていねいにグリグリ塗りつぶすように抹消する。この<消し方>の方にむしろ筆者の個性はより強く現れる。補筆にしても同じで作家それぞれのスタイルがある。この<消す・直す>は作家の指紋といってもいいかもしれない。

  もちろん、こうした微細なチェック項目とは逆に作品そのものの「出来ばえ」がある。<内実>であり<姿>である。転倒した言いかたになるが、一流の作家はたとえ失敗作と評された作品でも、やはり水準以下の作品は書かないし、書けない。連載中断や未完の絶筆でも、執筆する作家の気迫や懊悩はひしひしと読み手に伝わって来るものである。形としては未完成でも、ギリギリのところまで魂を刻みこもうとした作家の執念は、読む者をしておのずと襟を正さしめるものがある。これはもう文学にかぎらず、芸術一般の本質論にかかわる問題だ。

  さてこの原稿、本物とわかった。ぜひ手に入れたい。よく研究して評価を定め、ちゃんと陽の光を当ててやりたい。しかし高い。いや、ある意味安いといってもよかった。いまこの作家の評価は高まっている。注目のバロメーターである古書価もどんどん上がっている。ものによっては以前より一桁も高くなってしまった著書もある。こうなると古本は骨董品に転じる。お宝だ。世には金に糸目をつけぬお宝コレクターがいる。彼らが介入すると古本市場はたちまち高騰、これが稀少本で入札(オークション)ともなれば、戦場もかくやとばかりの大争奪戦になる。一介の研究者など、ただ傍観するのみだ。そして<物件>は誰やら一個人のコレクションとなって闇に姿を消すのである。その行方を古書店に問うても、これは彼らの守秘義務。つぎにこの<物件>が姿を現すのはいつのことか。またたとえ出たとしても、今度はさらなるプレミアつきのとんでもない値段になっているだろう。あのページのほんの一行が見たい、ただ奥付の印を確認したい、そんな研究者の真実に対する敬虔な思いは、風に吹かれる灯のごとくはかなく消え去ってしまう。印刷された刊本ですらそうなのだ。一点物の直筆原稿となれば、今この時、この値段で押さえてしまうにしくはない。

  その日のうちにわたしはこの作家の郷理にある文学館に電話した。これまでも何度か似たような事があったときには相談にのってもらい、おおむね文学館のコレクションとして買い上げてもらっていたのである。もちろん公共の施設であるからすでにきっちりと予算が決められている。予定外の高額な物件を自由に買えるわけではない。諸事情を勘案して、それで可能ならばの話である。が、さいわいなことに向こうも同じ目録を見て検討していたとのことで、わたしの報告を信頼してもらい、めでたく原稿は文学館が購入所蔵することとなった。これでこの貴重な資料は個人の持ち物として死蔵されることなく、広く一般に公開され得ることになったわけである。わたしは文学館と学問の神様に感謝した。

  それからまもなくして、文学館から原稿をコピーしたCDが届いた。いそいそと複写機にかけると、薄暗い古書店内で見たときよりもはるかに鮮明なカラーコピーが出てきた。「訂正」の跡はもちろん、編集者が書き入れたのであろう章立て指示の荒々しい朱筆や、植字工たちの担当印が無造作に押されている。おそらくは九十年以前に書かれたと思われる原稿が、今まさに印刷されようとしている、その現場に立ち会っているかのような迫力に息をのむ思いであった。

  この原稿をワープロで打ち直し整理してみると、作品の粗筋は、大正七、八年頃、作者が伊香保温泉に滞在中、ある湯番の老人から聞いた話として、その老人が少年時代に遭遇した奇っ怪な事件を、当時の視点で語る入れ子型の回想談になっている。江戸末期の上州高崎で鉄砲組として仕えていた武士を父とする老人の一家が妖怪変化に取り憑かれ、無残な運命をたどった、という話である。物語の展開、テンポのよさ、サスペンスの配置、少年の目線で語られる不安と恐怖、悲しみ。結末はさっと切り上げて一抹の哀愁を残す。瑕瑾のない、手だれた作家の特質を余すところなく発揮した佳品といっていい。長さは目録の説明にあったように四〇〇字詰原稿用紙で七〇枚弱、全一八章で、各章の場面に沿ったと思われる金森観陽の挿絵が一七枚添えられている。

  たしかにこのような作品はこの作家の作品ほぼ全てを収録した最新版全集29巻のどこにもはいっていない。幻の原稿出現か――。ならば、まずこの作品が、いつどこに発表されたものかを特定しなければならない。生涯を通じて花形・売れっ子作家であった彼の情報はヤマほどある。この作品の素性がわからないわけがない。そう思っていた。

  ところが、さっぱりわからないのである。考え付く限りの、ありとあらゆるツール(デジタル系・アナログ系)を駆使してシラミつぶしに調べたがわからない。作家名・作品名をキーワードにした正攻法だけでは埒が開きそうもない。そこで並行して、作品のネタになっているであろう典拠の詮索から糸口をつかもうと試みた。古今東西の怪異譚・説話・伝説・昔話と手を広げてみたが、類似の話はまったくない。ならば講談・実録・野史の類はどうか。学生時分から興味があったので、この方面の資料やネットワークには少し自信があった。が、結果は同じだった。途方に暮れて、知る人ぞ知るこの分野の第一人者に教えを請うたが不得要領の答しか返ってこなかった。舞台になっている地方の郷土史家や昔話研究会のようなところにも打診したが収穫なし。

  とはいえ、何もかも手づまりというわけでもないのだ。たとえば本作が発表された時期の特定はある程度しぼりこめる。挿絵を担当した金森観陽は白井喬二の『新撰組』中里介山の『大菩薩峠』などで腕を揮った有名な挿絵画家で、没年が1932(昭和7)年だから、本作の仕事をしたのはこれ以前のこととなる。また原稿の一枚目には、いわゆる「作者の言葉」が記されている。

これは「大衆文芸」とは少し違っているかも知れない。歴史小説でもなく、チャンバラものではない、怪奇談です。長いものではありませんが相当面白いつもりです。回数は二三十回です。
とある。この「大衆文芸」という言葉、またいわゆる時代小説(チャンバラ物)を中心に「大衆文学」が急激に勢いを増すのが大正末年から昭和初年(1925年)頃である。したがって本作はそうした新しい潮流を意識しながら書かれた、つまり昭和初頭に発表された作品と見てよいと思われる。

  加えて本作が発表された媒体であるが、作者は「相当面白い」「怪奇談」を「二三十回」挿絵付きで連載するつもりだった。となると内容と一章の分量から、これは月刊の大衆文芸誌よりも、回転の早い新聞連載のほぼ一ヶ月分として書かれたものと考えるのが自然だろう。

  当時の新聞および新聞小説について論じるいとまはないが、現在と大きく異なるのは、弱小地方紙が非常に多く、しかもそれらは短命で、次々と統廃合をくりかえし、そのつど紙名をめまぐるしく変えていたことである。そこに連載小説がまぎれている場合がよくある。そして今回の問題にかかわってくるのが『夕刊大阪新聞』という1923(大正12)年~1942(昭和17)年 まで刊行されていた新聞である。というのも古書店が持っていた生原稿には、金森観陽の挿絵のほかにもう一つタテ24センチ・ヨコ10センチの古い茶封筒が付いていて、表には本作の題名が筆書きされ、裏には「大阪市北区堂島浜通リ四丁目三番地/株式会社/夕刊大阪新聞社」と印刷されていたからである。これはもう「夕刊大阪新聞」の調査ですべてが解決する、そのとき正直わたしは安堵した。

  それから一年あまりがたつ。わたしはいまだに「夕刊大阪新聞」に出会えないままである。新聞調査の常識としてまず国立国会図書館に出向いた。が、実物もマイクロフィルムもなかった。あったのは、この新聞の紙名変遷の記録と、この新聞が1942(昭和17)年に「大阪新聞」に名を変えてからのマイクロフィルムだけであった。釣りかけた魚を逃がした思いで、その後も考え得るかぎり八方手を尽くしたけれども、手に入るのは周辺情報ばかり。見たいものだけがポッカリとないのである。

  わたしとしては早々にこの一件に決着をつけ、わたしの話に耳を傾けてくれ、おそらくは予算をやりくりして、高価な原稿を買い上げてくれた文学館に、一刻も早く恩を返したいのである。そしてこの作家の作品史と人生に花一輪を添えたいのである。しかし新聞紙は消耗品である。まして八〇年以上も前の弱小ローカル新聞が現在の日本のどこかに残っている可能性はほとんどない。万策は尽きた。あとは思いもよらぬ僥倖を待つのみである。が、それにしてもあの大作家がどうして、当時においてすら消えてなくなりそうな一地方紙に作品を載せようと思ったのだろうか――。

  事態に変化が起きたのはつい最近である。北海道の老舗古書店の目録に、この作家の生原稿の写真版が出ているのを見つけた。記された作品名は初めて目にするものである。写真は小さなモノクロで詳細は検分できない。しかもただちに北海道まで確認に行く旅費も時間もない。が、枚数が四〇〇字詰め原稿用紙二七枚と少ないせいか、値段的には無理算段をすれば、個人でなんとか出来ない値段ではない。一時的な家庭崩壊が起きても決断すべきだ。迷っていてはお宝スパイラルに消えて行く。速攻、古書店に電話して押さえた。 現物はすぐに届いた。冒頭の名前はまちがいなく彼の手と思われる。が、どうも原稿全体から妙なオーラが漂っている。偽作・代作の可能性がある。しかし、それはそれで代作が少なからずあったという彼の、創作の現実を明かす資料にはなるだろう。慎重に調査すべし。むしろわたしを驚かせたのは原稿の真贋といったことではなかった。原稿の一番下から出てきた一通の茶封筒であった。タテ23センチ、ヨコ16センチ。表には「○○氏原稿」と作家名が筆書きされ、裏には見覚えのある住所、そして「株式会社/夕刊大阪新聞」と黒々と印刷されているではないか――。はてさて、どうする。