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会報
第40号
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老兵、青学大の想い出
本多 浄道

 昭和四十七年(一九七二)は日中国交回復の歴史的な年になりました。敗戦(終戦)の昭和二十年(一九四五)以後、当然のように英語の全盛期、中国語学習者は激減します。
 大学の二外はフランス語かドイツ語が普通で、中国語も漢文も敬遠され、入試でも、漢文を除く大学が年々増加して、高校の漢文教育にも影響が及びます。
 私は現代中国語専攻ですが、公立高校では漢文担当で二十年を経たころ、週一日は非常勤講師として、青学大の二外中国語を担当していました。そのご縁から専任として迎えられ、私の中国語教育三十余年の第二の人生が始まります。このご縁を結んでくださったのは日文学科長の林巨樹先生です。
 私の所属は一般教育ですが、入試の校務は、日本文学科のお手伝いで、出題と採点の業務に加わり、そのおかげで日文の諸先生や副手、助手の皆さんとも知り合う機会に恵まれました。
 入試問題の作成は、私にとってかなりの負担で、夏の休暇はほとんどその仕事に費やされてしまいます。問題文を決めるまでに多くの制約があるからです。経験の浅い私には重荷でしたが、勉強にもなりました。
 青学大の特色とされるアドグルにも参加したので、中国語を選択しなかった学生とも交流が広まり、部活の顧問も二つ引き受けて、教室だけの教員にならないように努力したつもりです。q部の授業を担当したことで、多くのことを学びました。多くの学生は社会人で、昼の勤めを終えて疲れている身なのに、昼の学生よりまじめで、積極的に質問して納得しようとするので教えがいがありました。外国語の習得は、声に出す、短時間でも毎日続けることが肝要です。学生には万事に愚直であれと助言し続けました。
 想い出多い十七年間でしたが、林巨樹先生の驥尾に付して、退職することにしました。
 退職願を文学部長(岡保生先生)に提出したときに、意外なお話をうかがいました。
「私の菩提寺は浄土宗で伊勢市にあります。帰省するたびに墓参を欠かしませんが、なにぶん遠いので、私に万一の時はぜひ君に万事頼みたいと思っています。この件はすでに菩提寺のご住職にも相談し、ご承諾を得ています」いつになくしんみりとしたお話しぶりから先生のご心痛が私の胸にも伝わり、このご依頼をお受けしましょうとお約束しました。
 時は流れて、平成十一年一月二十七日、私がお見舞いにホスピスをお訪ねしますと著書「文学の旅へ」を下さり、ひととき奥様も加わっておしゃべりを楽しんだころ、「むかしの約束、覚えていますか」「勿論ですよ」これだけの会話で先生のお顔に安堵の色が浮かぶのを覚えました。一週間後の二月四日立春の朝、先生は心安らかに旅立たれました。お約束は果たせました。昨年は七回忌に相当しました。教学院碩徳保生居士、と戒名をお贈りしました。ご冥福をお祈りして合掌十念。
(*本多先生は浄土宗宗慶寺ご住職です)

日本文学会春季大会
講演:近藤好先生(国立歴史民俗博物館客員教授)
「義経の戦闘―一の谷合戦を中心として―」

博士前期課程 田村睦美

 今回のご講演の内容は、ミネルヴァ日本評伝選シリーズから今年の九月に刊行された『源義経―後代の佳名を貽す者か―』の「第三章一ノ谷合戦」に重なる部分が多いと思われるので、そちらもぜひ参照していただきたい。

 さて、今回のご講演は、ご講演の題にもあるように、一ノ谷合戦、その中でも「坂落とし」における義経の戦闘、特に義経の戦士としての戦略的能力、さらに身体能力について『玉葉』や『吾妻鏡』を中心として解釈することが、その中心であったと思われる。
 特に、義経の「坂落とし」に対する否定的見解、つまり騎馬で急峻な断崖絶壁を降りるのは無理だ、よって「坂落とし」は虚構であるとする従来の見解に対して、実際には可能かどうか、また可能だとしたら、場所はどこだったのかを、『平家物語』ではなくて、『玉葉』や『吾妻鏡』によって解釈する、といった方法がこのご講演の趣旨だったと思う。理解しやすく、また、納得しやすい方法だったのではないだろうか。
 細かいご考察の過程は『青山語文』第三十六号を見ていただくことにして、その内容を粗略ではあるがまとめてみたいと思う。

 覚一本『平家物語』によれば、義経が「坂落とし」をしたのは現在の鵯越からと考えられるが、それは『玉葉』の記事と矛盾する。覚一本と『玉葉』を合わせて考えてみると、実際には行綱が現在の鵯越から「坂落とし」をしたのに、覚一本はそれを義経のしわざとしたという可能性も生じる。しかし、覚一本の記述は、鵯越を一ノ谷のすぐ近くとする点で、矛盾を含むものであり、それによって覚一本の史料性を否定するならば、義経または行綱が現在の鵯越から「坂落とし」をした可能性も否定されるだろう。
 『玉葉』と『吾妻鏡』を合わせて考えると、その記述には矛盾がなく、現在の「鵯越」からではなく、須磨区の「鉢伏山・鉄拐山」から義経が「坂落とし」を行ったと考えられることができよう。
 つまり、『玉葉』と矛盾しない『吾妻鏡』の史料性を重視し、また、断崖絶壁を騎馬で降りるという行為は可能であるので、義経が一ノ谷城郭を鉢伏山・鉄拐山から「坂落とし」で奇襲したため、一ノ谷合戦に源氏軍が勝利したという見解がご講演では提議されていたように思う。

 ご講演の内容は以上のようなものだが、私には近藤先生がご講演で強調されたかったことは、まだ他にもあるように思われた。ご講演の後の懇親会でもお話されていたが、机上の空論ではなく生身の問題として身体能力や戦士能力といったアプローチから義経の「坂落とし」を考え直すこと、その上で改めて「坂落とし」の虚実を考察することが、近藤先生の今回のご講演の意向だったのだと思われる。
 身体能力や戦士能力といった視点から、一ノ谷合戦における義経の「坂落とし」を見直されたわけだが、まさに「現役のスポーツ選手」である近藤先生には最適の演題だったと思われ、人物史には多様なアプローチが有効であることを示してくださった興味深いご講演であったと思う。


「新間 進一先生を偲んで」
清水 眞澄

 新間先生は二〇〇五年一二月十一日の早朝、この世を去られた。享年八十八歳、学問と教育に捧げられた生涯であった。

 先生は一九一七年九月三日、東京に生まれた。ご実家が神戸のお寺であったことから、中学時代までを彼の地で過ごされた。その後、岡山の第六高等学校を経て東京帝国大学に進まれ、文学部副手として大学に残られた。時は第二次世界大戦のさなかであり、研究室の貴重な書籍、文献を守るために、先生は、疎開の措置を講じて心身を抛ったと聞く。しかし、そのようなご自身の苦労や、ご尽力を誇ることは決してなかった。

 終戦直後の一九四七年、『歌謡史の研究その一 今様考』を世に送った。以降、戦後の歌謡研究に本格的な道を拓き、主要な研究や叢書に先生のお仕事が収められた。しかもその一方では、与謝野晶子に代表される明星派歌人を中心に、近代短歌の研究に取り組まれた。それは、古典と近代短歌を照らし合わせる新しい研究であった。その一端は後年、『与謝野晶子』として纏められている。こうして先生は、二つの領域にまたがる広い視野と誠実な研究の姿勢を、生涯にわたり貫かれたのである。

 一九五〇年、北海道大学に赴任され、ひたすら研究と教育に打ち込まれた。やがて文部省の教科書調査官に転じ、一九六三年に日本歌謡学会が設立された時には、その中心的なメンバーとなられた。青山学院大学には、日本文学科の創設に当たって着任され、一九六六年から二十年の長きにわたって在職された。大学院を創設する上でも、貢献されたという。また新間ゼミからは、永池健二、浅野日出男両氏をはじめ、真野須美子氏ら研究を志す人材が育った。私自身は、ゼミで『閑居友』『宝物集』と、中世仏教説話を学んだ。先生は、学生の過ちや調べ方の不足を叱ることはなく、むしろ自分でその恥ずかしさを悟るようにされた。同時期に学んだ者には、北郷聖、十束順子、中島秀典の各氏らがいて、静かな熱気があった。

 当時先生は、金沢文庫の歌謡・声明資料の調査に取り組まれ、ゼミでも見学に伺ったことがあった。それは『金沢文庫資料全書』第七、八巻に結実した。一方、先生を慕う教え子や学会の若手が増え、一九八一年六月、準備期間を経て、中世歌謡研究会が誕生した。先生は、所属やその地位を問うことなく、歌謡研究を志す者を受け入れた。そして、学会を担う人材が育った。真摯な研究が人格を陶冶することを、身をもって示されたのである。

 当初の会では月に一度、『梁塵秘抄異本口伝集』『宗安小歌集』の輪講が行われた。私も、大学院に直接進学できなかったものの、この会に参加することで、研究の世界に繋がることが出来た。会が終わると、帰路が同じ京王線というご縁で、最後まで先生とご一緒したものである。こうして六年を経て、私も大学院進学の夢を果たすことができた。だがそれは、先生が青山学院を退任された後のことであった。しかし、以後も、先生は変わることなく、不肖の弟子を導き、後進を育てた。一九八七年に古稀をお祝いして、『梁塵 日本歌謡とその周辺』が刊行されたが、ここに全員の感謝の思いが集約されている。そして研究会は今も続き、『梁塵秘抄』を学んでいる。

 先生は、一度病気に伏された時も、健康を取り戻して学問の場に帰っていらした。私たちは今回も、また同じだと信じていた。そして、先生に御覧頂くことを念じて、研究に打ち込んできた。それが果たせなかったことに、深い寂しさと残念では済まない悔いがある。それは、私一人ではあるまい。今は師父と仰ぎつつ、心より感謝したい。どうか先生、安らかに休まれますよう。心よりご冥福をお祈りいたします。

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