共犯関係
矢嶋 泉
大学生活を無事に終え、社会人として巣立ってゆく頼もしい姿を見送ってから七、八年ほどたつと、何故か唐突な連絡を卒業生からもらう機会が多くなる。直接の契機は、結婚のために退社して時間ができたとか、勤務先が地方から首都圏に移動になったとか様々であるが、内容は決まって「ゼミに参加できないか」という問い合わせである。連絡をくれた卒業生の名誉のために一言述べておくと、不真面目に過ごした学生時代を取り戻すために大学に戻りたいというのではない。彼らは時間さえあれば研究室で夜遅くまで仲間たちと議論を戦わせ、熱い学生時代を過ごしていたのである。
二十代後半に最初の大学に赴任して以来、ほとんど教師としての自覚が欠落したまま生きてきた僕であるが、こんな連絡をもらった時だけ「この職業に就いていてよかった…」などという感慨が胸中に湧き起こる。この身勝手さには我ながら呆れもするが、敢えて釈明すれば次のような背景がある。
はるか昔の律令時代とは異なり、文学という学問は現実社会を生きぬく上では何の役にも立たない(別に胸を張っていうことでもないが…)。しかし、現実社会との関係をいったん相対化した時に卒業生たちが等しく伝えてくる文学への衝動(文学に関わりをもつことへの衝動)は、現実社会の尺度では測り得ない普遍的な価値を文学がもつという自明の事実を、改めて確信させてくれるように思われる。その価値を一言で言い表すことなど到底できない相談だが、断じて昨今流行りの〈癒し〉などという卑小なレベルで捉えられるべきものではない。広い意味での文学活動とは、人が人として生きてゆく上で、自らを取り巻く世界、或いは自らの内側にひそむ世界を、分節し、認識し、更には統御してゆこうとする能動的な行為にほかならないからである。
先に述べた身勝手な感慨とは、その文学を媒介として卒業生と僕とが共犯関係にあることを確信し得たひそかな喜びの謂なのだが、もっと有り体にいえば、文学部に籍を置きながら、「文学部に入学して何の役に立つの?」という学生諸君や御両親の問に正面切って答えられずにいる日頃の後ろめたさを、卒業生の一言によって一挙に救済された安堵にほかならない。
ともあれ、効率主義で突き進んできた現代社会がゆきづまりを見せる中、文学の存在意義は今まで以上に高まっている。卒業生の突然の文学回帰にいつでも応じられるよう、日本文学科は常時態勢を整えている。
日本文学会春季大会
講演:日本大学教授 紅野謙介先生
「山中峯太郎と『少年倶楽部』―『亜細亜の曙』の背景―」
博士前期二年 西井弥生子

紅野先生は、近代文学研究を名実共にリードされている方である。近年には『投機としての文学』(二〇〇三・三、新曜社)を上梓された。株を連想させる「投機」と、「文学」は一見結びつかないようであるが、読んでみて新たな視界が開けた。今回のご講演は、雑誌という〈メディア〉の特性と関わるもので、パワーポイントをお使いになり、教室のスクリーンに『少年倶楽部』の口絵や附録の画像が次々と映し出された。
『少年倶楽部』は、一九一四年から戦後まで刊行された少年向け雑誌の花形であった。売り上げを伸ばすために、編集部は少年たちを夢中にさせる紙面づくりに励んだ。例えば、「愛國号」という飛行機の折込み附録、日露戦争の軍神銅像セット、軍艦の模型など、毎号附録にも趣向が凝らされた。なつかしく感じられるのは、私も附録文化に親しんできたからであろう。
『少年倶楽部』の読者獲得の販売戦略と結びついた読み物が、一九三一年から一九三二年にかけて連載された山中峯太郎『亜細亜の曙』であった。
山中峯太郎(一八八五〜一九六六)は、非凡な経歴をもつ作家である。三歳のときに一等軍医の養子となり、陸軍大学校に進んだが中退し、中国革命軍に投じた。清朝から中華民国へ変化する中国大陸の政治情勢のなか、袁世凱に敗れて亡命してきた孫文らを支援する。さらにインド人の亡命革命家チャンドラ・ボースらをかくまう。しかし、日英同盟に従属する日本政府、袁世凱・孫文などの勢力均衡の上に立とうとする日本陸軍との間には亀裂が生じた。そして第一次世界大戦の勃発と、反日運動の高まり、袁世凱と孫文の連携などによって、西欧による植民地支配からの解放を目指した山中のアジア革命幻想は潰え去った。亡命の形で帰国した山中は獄に入る。入獄の理由は、獄中体験を綴った「獄中記」においても明らかにされていない。ただ深い懺悔と信仰が語られる。それまでの主体が放棄され、全く新しい主体へと変化していく。そこに山中の転回点を、見出せるのではないか。
『亜細亜の曙』は広大な移動空間(東京駅〜南洋の港〜大森林・大平原〜椰子の林〜巌窟城)と、多様な乗り物(列車、単葉ヂャイロ飛行機、無限自進機=ロケット、電送映画、硬式飛行船「流星号」など)が魅力である。だが、少年向け冒険小説とはいえ、ところどころ奇妙な感じがつきまとう。主人公は何カ国語も自由に操り、多くの試練を科学と気力によって克服していく。そこでは現実との間の差異が消失している。
それは拡大・縮小される地図的二元空間の上でのみ可能なのだ。またそこには雑誌の販売戦略としての、読み物と附録の連携があった。少年読者は、処々で附録の満州事変の地図などを参照し、主人公の華々しい冒険を追体験するという仕組みである。
『少年倶楽部』という雑誌の販売形態に着眼することで、『亜細亜の曙』が昭和初年代の少年たちから絶大な人気を得たことが理解できた。忘れられた作品に新たな命が吹き込まれる瞬間を目前にした一時間のご講演であった。
紅野 謙介(こうの・けんすけ)
1956年生まれ、早稲田大学第一文学部卒業。同大学院文学研究科博士課程単位取得中退。主な著書に『探偵小説と日本近代』(青弓社 2004)
追悼・野田寿雄先生
優しい野田先生のこと
「野田先生はすごいんですよ」と武藤元昭先生が感嘆する。今、青山学院大学学長の座にある武藤先生も、私が大学四年で教わった昭和五十六年当時はまだ助教授であった。「学会で地方へ行くでしょう? 夜、初めての土地で野田先生と町中を歩いていて、手招きされるからついていくと、必ず酒の旨そうな居酒屋があるんです」。聞くと野田先生も初めての場所だという。「知らない場所でも、お酒好きはニオイを察知するというか、一種、動物的な勘が働くようですなあ」と感心していらっしゃった。
そのご経歴や風貌、お酒好きからは結びつきにくいが、野田先生は敬虔なクリスチャンである。居酒屋で、ふと讃美歌二八六番を「神はわが力、わが高きやぐら」と口ずさんだりするので驚いたことがあった。愛唱歌だそうだ。
私が中高の六年間を過ごした横浜共立学園で奥様が教鞭をとっておられたことも、私が大学を卒業した後で知った。
私は大学卒業後、汲古書院という学術書の出版社にいて、近世文学会へ本を販売に行くなどしていたので、野田先生とは何かと接する機会があった。古本屋さんと結婚して会社を辞め、しばらく経ったある日、野田先生からお電話があった。「本をあげるからうちへいらっしゃい」。
野田先生も私もずっと横浜に住んでいたので、声をかけて下さったのだと思い、私は主人とまだヨチヨチ歩きの娘とともに、戸塚にある先生のご自宅へお邪魔した。
二階の和室に床の間まで本が積み上げられていて、「これ、差し上げますから持っておいきなさい」と野田先生。ご近所だから呼んだということではなく、先生は、小さな古本屋の女房になった私のことを心配して、こんな優しい言葉をかけて下さったのである。
ぬくもりある野田先生のお声をもう聞くことができないのかと思うと寂しい。今頃先生は天国の居酒屋で、大好きなお酒を味わいながら讃美歌を口ずさんでおられることだろう。
田中栞(一九八〇年度卒)
研究に対する姿勢
私は、昭和五十二年〜昭和五十三年度の野田ゼミ生である。野田先生の人柄とゼミのまとめ役の個性からか、「野田組一家」として他のゼミよりかなり団結力があり、野田ゼミ単独で京都や伊豆に研究旅行に行き、活発な活動をした。卒論の口頭試問では、穏やかに、にこにこしていらっしゃる野田先生の隣に、鋭い質問を浴びせかけるバリバリの武藤先生がいたことが忘れられない。
野田先生は、卒論のテーマ、あるいは研究対象に対して既成の研究ではない「新しいもの」を求めた。研究はお仕着せではない。卒論のテーマを“松尾芭蕉”についてにしようとしていたところ、芭蕉の孫弟子にあたる人で『奥の細道』と同じように旅をした人がいるというヒントを与えてくれた。旅の途中、私の実家がある岩手県盛岡にも立ち寄ったという。その名は、“松風乙二”。卒論のテーマは決まった。四年の夏休みを中心に資料収集。現在は、各種データベースの普及により資料の収集が容易だが、当時は全くといっていいほど何も無かった。それに加え、あまり研究されていない人物。先生に、“乙二”の資料を所蔵している東北大学図書館の司書の方を紹介していただき、東北大学の図書館に出向き、資料の収集。“乙二”の短冊、色紙などを収集しているという個人を紹介していただき、訪問。場所は交通機関の無い岩手県南の小村であったが、親戚が近くに住んでいたため非常に助かった。盛岡の拠点となった造り酒屋、商家、地主などの調査。江戸時代の街並み、歴史、経済、文化…。 こんなことがなければ、地元について調べなかっただろう。
野田先生から見れば私の卒論などはヨチヨチ歩きの幼児以下であり、はがゆかったかと思うが、私は必死だった。当時の経験は現在の私にとって貴重な財産である。野田先生は、研究に対する姿勢を言葉無しで教えてくださった。
中田眞江(一九七八年度卒)