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読書ガイド

おすすめの書籍を紹介します。

平野謙・小田切秀雄・山本謙吉 編集
『現代日本文学論争史 上・中・下』(未来社)

佐藤 泉(近代文学)

平野謙・小田切秀雄・山本謙吉 編集『現代日本文学論争史 上・中・下』

三巻にわたるこの本には、大正末期の「宣言一つ」論争から戦争中の「国民文学」論争まで、全体で25項目の文学論争が取り上げられ、それぞれについて数人の文章が並んでいる。このわずかな期間に、これほどたくさんの論者たちをあつめて、当時の文学場はいったいなにを議論していたのだろうか。いくつか例をあげよう。菊池寛が口火を切った「内容的価値」論争は、小説において重要なのは文章の芸術性か、それとも話の内容そのものにそなわっている価値かが対立軸となっていた。あるいは、広津和郎の発言に始まる「散文芸術」論争は、韻文=詩、絵画、音楽など他の芸術諸ジャンルのなかで、散文芸術=小説の固有性は何であるかという問いを立てている。散文は他のジャンルとの比較においていうならもっとも実生活に近いジャンルであり、それゆえ芸術として「不純」であることこそ小説としては「純粋」なあり方ではなかろうか、と広津和郎は自論を展開した。その他「批評方法」をめぐる論争、「目的意識」論争、「芸術大衆化」論争、「政治的価値」と「芸術的価値」論争、「政治と文学」論争、「純粋小説」論争、「思想と実生活」論争、「文学非力説」論争などなど、である。

「労働問題」や「労働運動」の担い手は、問題の当事者たる労働者でなければならない、それゆえ資産家の家に生まれついた自分がこれについて発言するわけにいかないと「宣言」した有島武郎、小説にとって「筋」の面白さは本質的な問題だろうかと問い、そしてまもなく自殺してしまう芥川龍之介、その芥川に反対し、筋立て、すなわち力強い構築性こそが小説の本質をなすのだと主張した谷崎潤一郎、さらにはモダニズムの横光利一やプロレタリア文学運動の中野重治、批評ジャンルで影響力を行使した小林秀雄らが続々と登場し、それぞれに論争のなかで自らの立場を明確にしていく。

文学論争に介入したのは、狭い意味での文学者だけではない。河上肇や大杉栄らは、文学プロパーというよりも思想家あるいは社会運動家だが、彼らもまた文学の場での議論に本腰を入れて加わった。信じがたいほどに多彩な論争が、多様な発言者をひろく巻きこんで展開されていたのだ。この景観は、今現在の言説空間と大きく異なる。この時代、小説を読むことは個々人の趣味の問題ではなかった。文学について、文学をめぐる問題について議論することは、社会が何をもって「価値」と考えるのかを問うことを意味しており、「価値」に関しては多数多様な立場から議論される必要があるのだという共通認識がそこにはあった。三巻にわたる本書に登場する人々は、みな議論が好きで仕方ない人たち、いうなれば騒々しい人たちだったことは、それはどうやら間違いない。が、この時代が論争の時代となったのは当時の人々の個々の資質のせいだけではない。文学を語ることが同時に社会の動向を占うことであるという共通理解が人々の間に成立しており、だからこそ広範な議論の場が成立していた。このように大論争が頻繁におこる空間があったため、文学は公共の広場でありえた。

だからこの三巻に関しては、ひととおり通読して感動する、という普通の読書法はあまり適切ではない。くわえて「読み方」というより、この場合は「使い方」といった方がふさわしい。私たちは、なにか作品と向き合うとき、意識するとしないとに関わらず、現代的な関心、「今・ここ」における問題意識をもっているはずだ。その関心を出発点に、「今・ここ」ならざるかつての論争を見つけ出し、異なる時空で、そして様々なポジションで思考していた人々と出会い、対話する身構えをもって読み、そして使うのが正しい用法だと思う。

古い本である。刊行は1956年、だからわたしの手元にあるものはページが黄色い。が、半世紀後の2006年、同じ未来社からキレイに化粧直しした新刊が刊行された。おそらくこの時代を振り返ろうとする機運に促されたのだと思う。日本文学に関心をもつみなさんにも、ぜひどこかで手にとってみてほしい。日本文学科の合同研究室にもきれいな三巻がそろっている。