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読書ガイド

おすすめの書籍を紹介します。

三上章『象は鼻が長い』(くろしお出版)
近藤泰弘(日本語学)

三上章『象は鼻が長い』

この本は、私が高校時代に将来は日本語の研究をしようかと思いたったきっかけになった2冊の書物のうちのひとつです。もう1冊は、金田一京助編『明解国語辞典』(現在の『新明解国語辞典』の前身)なのですが、それは辞書なのでまた別の機会にお話しするとして、ここでは、この『象は鼻が長い』について紹介してみます。

『象は鼻が長い』は1960年に、くろしお出版から刊行されたもので、もう半世紀も前の書物ですが、まだその中で述べられていることは日本語研究の中で解明されていないことも多いのです。具体的にどんなことがかいてあるのか、ちょっと見てみましょう。

日本語には、「象は鼻が長い」や「日本は温泉が多い」など、「○○は××が……」のように二重に主語があるように見える文が多くあります。また、主語だけでなく、「この本は、父が買ってくれました」の「この本は」のように「買う」という動詞の目的語が「は」で示されているように見える文もあります。三上章のこの本は、そのような複雑な性質を持つ「…は…が…」の文(後にこの本の題名にちなんで「象鼻文」とよく呼ばれるようになりました)の性質を、助詞「は」の「代行」の性質を使って明確に説明することでわかりやすく解説していくものです。

助詞「は」の代行の性質とは、たとえば、「大根は葉を捨てます」(料理番組)の場合、この「は」は「大根の葉」の「の」の代わり(代行)であるという考え方です。これによって、「象は鼻が長い」も「象の鼻が長いこと」の意味であり、「この本は父が買ってくれた」も「この本を父が買ってくれた」の意味であるという、簡単な説明ができるようになるのです。そして、なぜ代行するのかといいうと、それは、文の《題目》を示すためであるというふうに話が進行し、日本語には主語がなく、《題目》を中核とした言語であるという著者の主張が展開されていきます。日本語の「は」の性格を初めて明確化した著書として、この本は現在の学界でも広く知られています。

現在では三上の主張の、日本語には主語がないという部分については否定的な見解が多くなっていますが、この書で三上が提議した諸問題は、三上の説がそのまま受け入れられている部分が多く、日本語文法研究における「題目」の概念の研究書として第一に上げられるものです。

また、三上の研究のすごさ、面白さは、その示している内容の広がりの大きさにあります。たとえば、代行の「は」が、先行の「は」になるとして、次のような例を挙げています。

「虎はその姿を見せなかった」

この文では、「その」の先行として「虎は」が存在しています。これと似た例としては「理事はその任期を二年とする」「彼は自分の腕がむずむずしてきた」 などが挙げられています。「代行」の「は」と、「先行」の「は」との相互関係はまた複雑な問題を秘めています他には、題目を示す語として「と来たら」「と言えば」「と来た日には」などが挙げられており、現在の最新の研究で、複合辞と呼ばれる一群の語彙を扱っていることにも驚きます。

また、付録の増補部分にある「日英文法の比較」では、能格言語(主語と目的語のあり方が日本語や英語とは全く違う種類の言語。オーストラリア原住民言語などに存在する)の問題に触れられていますが、これなどはこの書が刊行されてから50年後の最近になってようやく学界の話題となってきたものであって、三上の視点が当時の学界から数十年先に及んでいたことが理解されます。

天才的才能を持った学者の書いた書物は、自然科学の世界には多いでしょうが、言語学の世界にはあまりありません。この書は間違いなくその種類に属するものであって、若い世代の方々が、言語研究の奥深さを知るための書物としてふさわしいものだと思っています。