eye-simposium

「偏見から神話へ・阪神淡路大震災の<教訓>

講演要旨

ある出来事を描写する場合、純粋に客観的な描写というものは存在し得ない。語り手による選択が行われるからである。その選択は、語り手の文化的先入観に左右される。このことを、阪神・淡路大震災をめぐるフランスにおける新聞・雑誌報道を例に、サン・フランシスコ地震の報道との比較対照を行いながら検証することにする。

フランスで報道された記事の多くは、ただ単に震災報道をするのではなく、実は震災を通して日本を描写している。神戸について語ることが、すなわち、日本について語ることになるのだ。しかし、サン・フランシスコ地震についての報道は、アメリカ全体のイメージにまで発展することはない。

阪神・淡路大震災についての報道には、日本のイメージを形成する二つの紋切り型が見られる。ひとつは秩序に関するもので、もうひとつは名誉に関するものである。

秩序に関する紋切り型は、説明的な役割を果たす。つまり、日本社会の根幹を成しているとされる愚かで残酷な秩序ゆえに、神戸の人たちの一部が震災で苦しみ死んだのだ、と大震災の理論づけが行われているのである。たとえば、雑誌『レヴェヌマン・デュ・ジュディ』2月2日号では、「彼らは、生存者を見つけることにはそれほど執着していないような印象を受ける」というフランス人の救助隊員の談話が紹介されているが、この一節はその後も繰り返し登場することになる。同じような論調は他の雑誌や新聞でも見られ、「警官」や「救助隊員」が夜は捜索をやめて、被災者たちを見捨てていると報道されている。

たとえば、1月21、22日付けのル・フィガロ紙によれば、「行方不明者の捜索は遅々として進まない。救助隊員たちは、夜は仕事をしないのだ!彼らは装備も不十分なので、特別装備の救援隊は/…/歓迎されるであろう」とあり、フランスの救援を報じた、1月23日付けのリベラシオン紙によれば、「夜間も捜索を続けたいというこちら側の申し出は、日本の警察によって丁重に断られてしまった。これは予期せぬことであった。ではまた日曜日に、ということになった」とある。1月26日付けの週刊誌VSDの報道はこうである。「日本の警察は融通がきかず、夜間は決して働かないという金科玉条に背くことができないのだ」とか、「警官は夜間働くことを拒否するし、自衛隊員たちは命令を待っているだけだ」(本文記事を一部抜き出して太字で強調したもの)など。

これらの報道文に見られるメカニズムは、噂のメカニズム、つまり噂を形成するディスクールの手法に特有のメカニズムに極めて近い。もう少し厳密に検討を加えてみよう。

ル・フィガロ紙の記事の中では、並列された次のふたつの文章(「救助隊員たちは、夜は仕事をしないのだ! 彼らは装備も不十分なので」)の間には、論理的な空白が作り出されている。「救助隊員たちは、夜は仕事をしないのだ!」という文章に感嘆符が用いられることで、もしかしたらとんでもない結論が導かれようとしているのかもしれない。このふたつの文章は、「救助隊員たちは、装備が不十分であるがゆえに夜は仕事をしない」という読解ではなく、読み手に次のような読解をさせるものとして読めるのである。つまり、明確な因果関係を示す言葉を欠いているがゆえに、「救助隊員たちは夜は仕事をしない。しかも、装備も不十分である」とも読める。この論理的切り替えによって導かれる結論は次のようなものではなかろうか。救助隊員たちが夜仕事をするのを妨げているのは、物理的に不可能だから(それなら倫理的には赦されるかもしれない)ではなく、それが基本方針だからなのだ(これには弁解の余地はまったくない)という結論である。ル・フィガロ紙の報道から2日後、フランスからの救援隊が遭遇した困難について報告したリベラシオン紙の記事にもまた、同じ結論が繰り返されているが、ル・フィガロ紙でははっきりと言明されなかったこの結論が、リベラシオン紙では、今度は明言されている。しかも、言葉の意味が極めて曖昧になるような情報が添えられている。「これは予期せぬことであった」という表現は、この記事の筆者のコメントなのだろうか? それとも、日本の警察の言葉を自由間接話法で表現したものであり、「そんなことは予定されていません」と日本の警察が、フランスの救助隊からのせっかくの申し出を断ったものなのだろうか? 規律を極度に重視するがゆえにせっかくの援助を断るというシナリオが浮上し始める。リベラシオン紙の報道からさらに2日後の週刊誌VSDの報道では、それまでの報道に見られた用心深さは打ち捨てられて、日本の警察や救助隊への非難が炸裂している。VSDのふたつの記事には、その内容においても形態においても、赦しがたいという思いがますます募っている様子が反映されているように思われる。記事の本文においては、あきれるほど規則に縛られた日本の警察の行動が語られ、記事の本文を抜き出して太字で強調したものにおいては、日本の警察がさしたる理由もないのに夜間の捜索を拒否したと報告されている。苦しんでいる人の描写と、秩序を守ろうとしてかたくなな警察の描写の間には、悲痛な隔たりが設けられる。こうした報道の仕方は、日本嫌いの報道にしばしば見られるものである。こうした報道に慣れた読者にとっては、日本の警察が夜間の捜索を拒否したという「事実」は、まさに、日本社会の機能の仕方そのものに基づくものとして捉えられる。既存の紋切り型こそが、情報に信憑性を与え、噂の源流となっているのである。

阪神・淡路大震災報道においては、このように秩序に関する紋切り型のマイナスイメージが説明的な役割を果たしていることがわかる。つまり、すべての現象が、機械的にしか機能しない日本社会、個人の主体性が消え失せている日本社会というイメージによって説明されてしまうのである。硬直した秩序を重視する日本社会においては、上層部の政治・行政機関とその下の個人とが分断され、個人と個人の間にも心の交流が欠けているため、心の通い合う連帯は見られないというのだ。これは、サン・フランシスコ地震の報道において、友愛に基づく助け合いのテーマが強調されているのと対照的である。

阪神・淡路大震災報道において駆使されるもうひとつの紋切り型、名誉に関する紋切り型は、武士道の名残りとされる、日本社会の驕り高ぶった態度を槍玉にあげる。つまり、アジアの小国でしかない日本が驚異的な経済的発展を遂げたことに脅威を感じていたフランスは、この大震災を、身の程をわきまえない日本社会に対する天罰と位置付ける報道を行ったのである。一方、サン・フランシスコ地震の報道においては、国家の傲慢というテーマはまったく見られない。懲罰のテーマは見られるが、それは、共通の価値観を持つアメリカ社会に対してフランスの読者の同情を向けさせるためである。

種々の状況のうちからあるものを選び取りメディア的出来事に昇格させる新聞・雑誌報道の下には、さまざまな紋切り型や固定観念が隠れているのである。

(翻訳・秋山伸子)


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