eye-profs-tt

露崎 俊和

フランスの詩といえば?

フランスの詩というと、どんな詩人が思い出されるだろう。一年生向けの授業で、学生たちに自分の気に入った詩の翻訳を一つ選ばせ、それについて発表させることがある。そんな折に登場するのは、十九世紀だとボードレールやランボー、まれにミュッセ、マラルメ、ヴェルレーヌだったりする。ランボーは映画(レオナルド・ディカプリオ主演の『太陽と月に背いて』)の影響も大きく、名前だけは知っているという学生が多いようだ。アルフレッド・ミュッセの場合も似たり寄ったりの事情で、ジョルジュ・サンド(ジュリエット・ビノシュ)との恋の顛末を描いた『年下のひと』という映画がこの詩人の名前の時ならぬ、とはいえささやかな浮上に一役あずかっているにちがいない。

二十世紀であれば、コクトー、アポリネール、プレヴェールだろうか。コクトーは自身が監督をつとめて作品を撮っているし、また脚本も書いている(ロベール・ブレッソン監督の『ブローニュの森の貴婦人たち』はよく知られている)。プレヴェールもマルセル・カルネ監督の『霧の波止場』や『天井桟敷の人々』などに脚本を提供している。コクトーはその画業でも知られ、またプレヴェールはシャンソンの歌詞も多く作っている。作曲家のコスマと組んだ『枯葉』は場所と時代を超えた名作として世界中に遍く知られている。それらの点で、彼らは文学以外の芸術ジャンルにも好奇心をもつ人たちに大きな関心を抱かせる存在でもあるようだ。また、アラゴン、エリュアール、まれにブルトンなどのシュルレアリスト詩人たちを見つけてくる学生もたまにいるが、こちらのほうが二十世紀における文学の展開という面から見れば、つまり文学史的な狭い展望においては主流であるだろう。

ところで、同じフランスの詩とはいえ、十九世紀初めのロマン主義から、世紀半ばのボードレール、さらに世紀末のランボー、マラルメ、ロートレアモンを経て、二十世紀のアポリネールやシュルレアリスム、さらに以降の詩人へと続く詩の歴史は、恐るべき変化、根本的地殻変動の歴史だったといえる。定型詩から非定型へ、叙情から言語造形へ、思想陳述や感情吐露から現実を超えた次元(不条理、無意識)の探求へ…詩人たちの名を漫然と羅列して、その好き嫌いを言うのではなく、このような歴史的展望のなかに置き直してみて、はじめて個々の詩人たちのそれぞれに特異な相貌が見えてくるだろう。


翻訳…

ところで、翻訳というものは、詩というものに関心をもち、たとえばある詩人の世界へ足を踏み入れていくきっかけでしかない。翻訳の感動は、原典の感動を超ええないなどといいたいわけではない。そうではなく、ただ、フランス文学科で詩を学ぶということからすれば、さらに原文で読むという次元にまで踏み込んでいくことが必要となるというにすぎない。名訳のもたらす感動はすでに、半ば以上、日本語をめぐる感動である。

原典の感動は、もし「感動」という次元にまで到りえたならば、日本語をとおしての文学経験においては決して有することのできない、異質な風景、異質な世界との衝撃的ともいうべき出会いを与えてくれるはずである。


フランス詩を読む/学ぶ

もちろん、大学で初めてフランス語を学ぶ人たちにとって、翻訳が手放せないものであることは認めざるをえない。にもかかわらず原文で読むようになれてはじめて翻訳というもののもつ限界や、また翻訳に固有の役割といったものが了解されてくるようになるはずである。それと平行して、詩もまた他の文学ジャンルである小説や戯曲などと共に、ある特定の時代に生まれ、ある具体的な歴史の相に呼応しているのだということも把握されなくてはならない。詩はその作り手である歴史的個人としての、特異体としての詩人を通して、そのような歴史の空間に打ち込まれている。フランスの詩を読むということは、少なくとも大学の文学の授業で求められていることは、(あるいはわたくしが勝手にそう決めつけていることは)フランス語で書かれたテクストのうちへ沈潜し、その言語によって造形された空間のうちに響く声(多くの場合複数の声)を聞き取ると同時に、それがテクストの外側のいかなる空間へと通じ、開かれているのかを尋ねてみることにつきる。

そのためには、大いに辞書をひき、事典を調べ、正確に文意を把握したうえで、イメージをしっかり捉え、調べとリズムに同調し…といったことが必要になってくる。

ところで、同じフランスの詩とはいえ、十九世紀初めのロマン主義から、世紀半ばのボードレール、さらに世紀末のランボー、マラルメ、ロートレアモンを経て、二十世紀のアポリネールやシュルレアリスム、さらに以降の詩人へと続く詩の歴史は、恐るべき変化、根本的地殻変動の歴史だったといえる。定型詩から非定型へ、叙情から言語造形へ、思想陳述や感情吐露から現実を超えた次元(不条理、無意識)の探求へ…詩人たちの名を漫然と羅列して、その好き嫌いを言うのではなく、このような歴史的展望のなかに置き直してみて、はじめて個々の詩人たちのそれぞれに特異な相貌が見えてくるだろう。


ゼミにて

さて、上で述べたことはいった前提に立って、わがゼミは運営されるはずだが、それがそう思惑どおりにはいかない。

ソウハトンヤガオロサナイという不遇の魔がわがゼミに取り憑いているようである。実をいえば、理由ははっきりしている。要求のハードルが高すぎるのである。それは、よく承知している。教師自身、我が身を振り返り、学生だった頃を思い起こせば、フランス詩を原典で読むことの難しさは骨身に染みてわかっている。だが、苦労して、曲がりなりにも一つの詩を通読できたとき、そしてそのフランス語原文を声に出して朗読し、あるいは暗唱するときのいうにいわれぬ心地よさ、あるいは充足感というものが存在している。

だから、その一端なりともを味わってもらうためにも、一年かけて十行でも、二十行でもよいから、自分だけの力で、フランスの詩の空間に潜りこみ、そこに身を浸して欲しいという趣旨で、頑張っているというのがこのゼミの実状である。


« 教員ゼミ紹介へ戻る

©2015 Université Aoyama Gakuin Tous droits réservés