デカルトを読むようになったそのそもそもの始まりから、様々な疑問を潜在させて心に掛かったまま、容易に消え去ろうとしない一節がある。それは他でもない『方法叙説』第一部の記述が、『良識はこの世で最も公平に分配されているものである』と書き始められるあの有名な一種の前置きを終えて、この書物の本来の面目たるデカルトその人の知的な自伝の語りに転じようとするその冒頭に置かれた一節である。
『私は子供の頃から文字による学問のなかで育てられ、この手だてで人生に有用な全てのことについて明晰で確実な知識が得られると説き聞かされていたので、それを学び取ろうとするこの上もなく強い望みを持っていた。』無論のことこれに続く文章は、直ちにこの人文学(『文字による学問』)への失望を語りはする。その意味ではこの一節も、デカルトの生涯の知的な幕開けの、ある一挿話を述べたに過ぎないと読むこともできよう。そしてそれは、事が単に「人文学」に関わる限りでは、事実その通りなのだ。だが人文学そのものを除いてもまだ残る二つのもののあいだの相関関係−『学び取ろうとするこの上もなく強い望み』と、この望みにおいて欲せられ・志向されている『人生に有用な全てのことについて明晰で確実な知識』とのあいだの相関関係−はどうだろう。これも人文学の挿話とともに過ぎ去るべきものだっただろうか。それともこの相関関係は、全挿話が言わばその廻りに展開する機軸として常に変わらず生きられ維持されたまま、まさしく欲せられている当のそのものが人文学において満たされる望みを失ったということなのか。そして一人称で過去を物語るという、デカルトが『方法叙説』で採った歴史記述のスタイルが、己の生涯ではほんの前景の挿話として過ぎ去った人文学に、この望みを暫定的に仮託してみせたにすぎないのか。少なくとも私にはこの「望み」の語が既に、なかなかにその実質の捉え難いものである。
ある論者は、この節全体のうちに後年のデカルトの虚構をしか認めない。わずか八歳の子供が、既に人生に適用可能な、そして確実な学の理念によって動かされているなどとは、と。また別の論者がここに読むのは、デカルトを教育したジェズイットの先生達の受け売りである。歴史形成力を失った後期スコラの煩瑣哲学に対して、ルネッサンスの人文学の「有用性」は、当時は全くありふれたテーマであった、そしてジェズイットの教育理念の進歩性はまさしく人文学の成果を積極的に取り入れたところにあったのだ、と。勿論この一節のなかに、執筆当時のデカルトの現在が入っていないということはあり得ない。四十路に入った一人の人間が改めて自分の過去に向き直り、その意味を我とひととに了解させようと語り出すその時に、一種の解釈学的循環が働くのは当然のことである。また一切を人文学のプロパガンダに帰するのも芸のない話しだ。事実、失望を経て自らの学んだ学院を、言い換えれば文字と書物と教師による学問を捨て、一人『世界という大きな書物』のなかで学ぶ途を行こうとするデカルトは、わざわざ同じ表現を用いて次のように記している。『そして私は自分の行為において明晰に見、確信をもってこの人生を歩むために、真を偽から見分ける術を学び取りたいというこの上もなく強い望みを相変わらず持っていた。』極度に言葉を惜しむデカルトにして、この繰返しは決して卒爾のものではあり得ない。つまり『この上なく強い望み』そのものは、直ぐに見切りをつけた人文学の有用性の思想を超えて、なお維持されているということだ。
『この上なく強い望み(extrême désir)』とは文字通り最上級の過激な表現で、デカルトも学んだと思われるアリストテレス系の道徳哲学の、「中間(中庸)」を尊ぶ精神とは必ずしも折り合いがよくはない。しかもしばらく後に世に出るラテン語版の『方法叙説』では、この箇所の表現は更に強められている。『私は学び取りたいという信じられない程の望みに燃えていた。』そしてこの系列に属する表現を追跡して行くと、やがて『哲学原理序文』のなかの次のような文章に出会う。『感覚の対象に惹かれきったままになっているために、時にはそれから身を離して、それとは別の何かしらより大きな善を望むということをしないほど、それほど高貴さに欠ける魂は存在しない、たとえそのより大きな善が何に存するかをしばしば魂は知らないとしても。』
より大きな善を欲するが故にこそ、却ってその志向されているものがここにないという激しい欠乏を生きる現在の知覚。こうして読んでくれば、ここで半ばプラトン的なエロースに比定して語られているものが、そして『方法叙説』で人文学の孕む夢に投影して語られていたものが、まさしく真正の知への渇きとしての「哲学の始まり」のイデーに他ならないことがわかる。およそギリシャの昔から、プラトン風の求心的な哲学の営みとイソクラテス風の人文学的教養との間には、常に変わらぬ複雑な葛藤があった。
では、この「望み」において欲せられているものを限定する、『人生に有用な全てのこと』の句の方はどうだろうか。デカルトとデカルト主義とからは現に様々なものが流れ出て、しかもそれらの多くが現在の複雑なデカルト批判の諸潮流へと逆流して行くので、この句もまた私には読み解くに難いものである。例えば、有用性すなわちある種の利害(intérêt)の観点から算定された功利性。ここでは確実性の探求は利得を離れた真に自由人的な高貴な営みというよりも、そもそもの始めからある種の知の功利性という偏向を帯びている。デカルト自身が推進した知による自然の有効な支配(「自然学」の構成)という理念と、そこから生じて現に生活を快適ならしめている様々な技術的諸成果。そしてそれらの成果が却って現在では、我々の現実を圧迫し精神的視野を狭めているという評価、等々。こうして近代批判のポレミックの核には、殆ど常に何らかの形のデカルト批判がある... 私自身は、今この種のポレミックの場に参加しようとは思わない。ただ「有用性」の思想そのものを、特殊デカルト的な、そして特殊近代的な偏向としてしまいかねない考え方だけには、一応疑問を附しておきたいと思う。何らかのより大きな善が模索されつつ掴まれてくるということ、それは私たちがその「よきもの」を欲し必要として本質的な関心(intérêt)を寄せ、心あるいは魂をそのものの方へと向け直すことである。他の様々なものは、私たちがこの「よきもの」において欲し意欲している事柄の見通しの中に引き入れられる。私たちの魂が本質的に何の方を向いているかということと、何らかの大きな善が与える全体的な視座ないし視野への適合性の連関を離れて、いかなるものの有用性を語る余地もありはしないのである。
例えば、所謂「近代」を遡った「中世」の代表的な作物、トマス・アキナスの『神学大全』の知的構成も、やはり「有用性」への考慮によって全体が統括されている。この書の構成を決する要の箇所で、そもそも知の問題に関わるのに哲学的諸学以外に何らかの教えが必要であるかどうかという問を立てたトマスは、大略次のように答えているからだ。聖書は人を教え、戒め、矯正し、義に導くことに向けられているが、この教えは人間的理性の埒外にある神の霊感によるものである。したがって哲学的諸学のほかに神感による知を持つことは有用である、と。そしてこの配慮が、この書における聖書と哲学的探求との協同関係、また啓示神学と自然神学との協同関係を導いていく。「有用性」とは優れて体系的な概念なのである。
トマスに昏い私には断定がはばかられるが、『人生に有用な全てのこと(tout ce qui est utile
à la vie)』という『方法叙説』の表現方式は、その「有用性」の思想とその「有用性」が他ならぬ「人生」にとっての有用性であるという点を含めて、そのままトマスによっても受け入れられるものであったろう。違いはむしろその手前にあるもの、「人生(la
vie)」、生、今ここにおける私たち自身の在り方−その中で私たちが何に心を向けているかを含めて−への理解そのものにある。
「聖なる教え」における問題はこの生を生きる個々の魂の救済の確保である。個々の魂はすべて自らの救済へと心を向けているし、また向けていなければならない。すべては啓示に基づく救済の確保と促進という目的へ向けて算定され、予めこの連関への適合性のなかで知るに値するものが決定されているのである。知ることに対して相関的に与えられた人生に有用な事柄のすべては、ここではこの様な見通しに支配されている。
デカルトではそうではない。学院で学んだ事柄に対してデカルトが与える総括的評価の中で最も印象的なのは、自らが関わろうとする知の領域からの、『天国を勝ち得る』ものとしての『神学』の切り離しではないだろうか。啓示の問題が消えたのではない。「生」を画する限界としての死を思うことが止んだわけでもない。自らの知的投企の炎が及ぶ領域のその外で、デカルト個人は啓示の宗教に身を委ねていただろう。トマス以降の唯名論の成立による信仰の問題と知の問題の改めての分離、この唯名論の系譜からの宗教改革の成立、そしてヨーロッパに荒れ狂った宗教戦争の嵐、トマスとデカルトの間には様々なことがあった。
知ろうとする『この上もなく強い望み』が己の地歩を確保すればする程、その強烈な光の当る部分に対して常にますます奥深く引きこもる深部から、同じ十七世紀にあげられた声に次のような言葉がある。『無用にして不確実なデカルト』、と。デカルトの意味における「有用性」を否定したパスカルには、同時にこれがデカルトの意味における「知ろうとする欲求(libido
sciendi)」の否定になることがわかっていたはずだ。この魂の向き直しを引き起こすために、デカルトとは別して本質的によりレトリシャンであるパスカルが、一体どれ程の努力を傾注し尽くしたことか...
『方法叙説』の短い一節を通して、先立つ時代と同時代とやがて来る時代の、様々な潮流が谺し合うのが聞こえる。無論、若きデカルトその人は、言わば本能的に己の内的な促しに従って、自らの途を行こうとしているだけである。己の途を行く者の、星座のような孤独と言うべきだろうか。 |