愛しくて仕方がない。
そんな時間の集結。それが石崎ゼミ。
先生の力強い声、コミカルな動き、圧迫感(いや存在感)、とにかくキュートで、わくわくする。毎週、90分間(あ、先生は教室に来るのが遅いからもっと短いか)のドラマの中にいた。
「本は手にとってみなさい」
石崎ゼミで君は何を学んだかと尋ねられたならば、胸を張って答えられるのは先生のこの言葉だ。人間一人が世界中の本を読もうと思っても、決してすべてを読むことはできない。でも、何かの縁があって出会った本は、手にとって見てみる。本を、経験する。それが大事なんだ、それが学問なのだ。ムッシュー石崎は雑談王だ。テクストがちっとも進まない。だけど、稚拙な言葉で言うと、先生の知的な雑談こそが私の糧になっている。大学にきてよかった、と思う、ただシンプルに。私は雑談が始まると机に向かっていた顔を上げた。雑談が始まらないと顔を上げなかったのかという質問はここでは敢えて黙殺する。雑談するときよく「え〜ついでにいうと…」と話がどんどん膨らんでいくのが先生の特徴。サルトルの話をしているとついでについでにいろいろいろいろ出てきちゃうみたい。そして一言、「世界は“ついで”に満ちている」…名言!!!更に、さんざん雑談しておいて、「“ついで”はモグラみたいなもんだ。モグラは全部たたかなくてもいい。自分で取捨選択していかないと収拾つかなくなる。」そう言い、本題のテクストに戻る。この言い回し!あまりにアンテリジョンスでニヤニヤしてしまう。私はすかさずテクストの隙間に「ついではモグラ」とメモする。後から見ると何がなんだかよくわからない。
そんなモグラたたきのような先生の膨大な知識の海に、私は毎回溺れそうになっていた。どうしてこんなにいろんな事を知っているんだろう?尊敬というよりむしろ怖さを感じていた。畏怖というべきか。ただ、私がもしも先生に近づくことができる方法があるのだとすれば、それは「本を手にとる」ことをこれからも続けていくことなんだろう。そして、私はこれから、生き方全てに、この姿勢をとっていくだろう。本だけではなく、出会った人、未知の食べ物、新しい土地、人生のあらゆるチャンス。とにかく「手にとってみる」。そうやって経験して、私なりの深い海を作っていく。人生の海の作り方を、私はここで学んだのだ。え、何?先生。ああ、「授業は休んでもいいからコンパには出ろ」の教えも忘れるなって?わかってますって!
(4年 高見沢 梓)
ある研究者の性格を、その研究対象の人物なり事柄なりに帰するというのはいかにもありふれていて、かつ大雑把なやり方であるが、結局石崎晴己教授をサルトルとを結び付ける気持ちをおさえずにはいられなかった。先生の授業(それがサルトルに関するものであってもなくても)を聞いていると、サルトルのテクストを読んでいるような気分になる。先生の語り口は、知的であり粗暴でもある、簡素であり過剰でもある。整然としていたはずの論旨が突如脱線することもある。なかでも、常に鋭い問題意識を持ち、対象を冷静に分析しながらも、なにかを伝えたいという思いに溢れた熱っぽい口調で語りかける先生の姿はサルトルにぴったり重なって見える。
基本的に石崎先生が学生に何かを強いるということはない。もちろん、授業がフランス文学の講読という形をとる以上、ある程度の下調べは必要であるが、それとて他のゼミと比較するとかなり負担の小さいものといえる。実際、学生の間では石崎ゼミが俗にいう楽なゼミであるということになっており、その噂通りに二年間のゼミ生活をのんきに楽をして過ごすことも可能である。しかし、取り組み方次第で石崎ゼミはなかなか刺激的なゼミとなる。
先生が専門とするサルトルの自由の思想によると、人間は自由の刑に処されているのであるが、石崎ゼミの学生も同様に自由である。上から指示されるものがない以上、学生は自らの行動の選択肢を自らつくり出さねばならない。他のゼミのように、前々日までに予習を完了させ、前日はその復習に当てるといった方針がない分、学生はなにをするべきかということを常に自分に問いかけなければならない。自分になにを課すべきかということを考える、これが石崎ゼミの最大の魅力といえる。
仏文科の生徒であるからといってフランス文学に固執する必要は必ずしもない。むしろ、常日頃からフランス文学という枠組みにこだわらずさまざまなものに関心を向ることが大事である。フランス以外の文学、思想、科学。あるいは映画、音楽、パソコンなどなど。石崎先生の関心はじつに多岐にわたるので、授業はサルトルのテクスト分析を出発点としながらもそこから様々な方面に枝わかれし、必ず学生の関心を刺激してくれる。そこからさらに知識を深めるも良し、知らなかったものは新たな知識への導きの糸とすればよい。
結局、何も石崎ゼミにかぎったことではないが、ゼミでの二年間を実りあるものにするのも無駄に終わらせてしまうのも結局は学生次第である。
(4年 福田 裕大) |