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自己紹介

私は元来、旧いタイプの日本人がそうである(あるいは、そう思い込みたがる)ように、シャイな男で、近頃はやりの自己アピールとか称するものが好きではない(とは言え、このように自称する男の言うことを真に受けてはいけない、というのは一般原則である)。しかし学生諸君には「堂々とアピールしろ」などと発破をかけたりもしているのだから、この際、照れずに(あるいは、照れた振りなどせずに)自己紹介をすべきだろう。

生まれは1940年10月4日、つまり(15年戦争の)戦中生まれ、(大平洋戦争の)戦前生まれで、1947年、新憲法発布の年に小学校入学、激動の60年代に学生・院生時代を過ごした。いわゆる「団塊の世代」の一つ上の世代で、日本近現代史の中で特筆すべき世代に属すると言う、変な思い込みがある。

専攻としては、卒論の時からサルトルをやっている。当時はサルトル人気の絶頂期で、その時にサルトルを志すというのは、よっぽど無鉄砲かよっぽどミーハーかのどちらかだったが、多分その両方だったのだろう。サルトルに取り組んだ俊英たちの多くは、創造的な仕事で成果を挙げたり、サルトルを越えて他の著作家の方へと進出しているが、その中で大学でもそもそとサルトルを講じ続けているというのは、どういうことか・・・とは言え私も、サルトルの周辺に位置する作家たちに関する仕事もやったし(カミュ、セリーヌ)、サルトル以降の現代の思想家(と、ひとまず言っておこう)の研究と紹介も行なっている。つい先日亡くなった、現代フランス随一の知識人、ピエール・ブルデューや、家族制度を基盤とする独自の世界像を提唱しているエマニュエル・トッド、それにフランスのソ連邦研究の第一人者、カレール・ダンコース、といった著作家たちである。

ご覧のように、私の活動領域は、フランス文学の領域を大幅にはみ出しているわけだが、かといって、そのはみ出し方になんらかの一貫性・統一性があるわけでは必ずしもない。

 
ゼミ紹介

私のゼミでは、サルトルを研究する。「サルトルをやる」というのは、どういうことか。ご承知の通りサルトルは、20世紀のちょうど中央部において、フランスの文学・思想の世界、ブルデュー用語で言えば、フランスの知識人界を支配しただけでなく、全世界的声望と影響力を揮った、多面的知識人である。「多面的」というのはpolyvalent というフランス語の単語の訳のつもりで、「何でもこなす」という意味であり、つまり哲学者にして小説家でもあり、戯曲、文学評論、ルポルタージュ、政治的文書と、あらゆるジャンルを縦横に闊歩したということを、意味しようとしている。

したがってサルトルを「やる」というのは、文学と哲学の両方にまたがるということであって、その両方への知識、少なくとも関心が要求される。またサルトルはその時代に徹底的にコミットした知識人であるから、ナチスの台頭から第二次世界大戦、そしてインドシナ戦争、アルジェリア戦争、ヴェトナム戦争と、戦後のフランス、さらには共産主義運動の有為転変に至る近現代史の主要なポイントにも、目を向けなければならない。それともう一つ、サルトルはまさに現代作家であるから、彼の作品は最も現代的なフランス語で書かれているので、単語や表現だけでなく、文の流れという点でも、現代的なフランス語の勉強になる。 

「サルトルをやる」というのは、これらすべてを「やる」ということだが、サルトルに関心を持って、サルトルに取り組もうとする学生諸君の立場に即して言うなら、最初からすべてを望むには及ばない。これらのうちのどれか一つを突破口にして近付くというのでも、大いに結構であろう。

 
ゼミ生の声

愛しくて仕方がない。
そんな時間の集結。それが石崎ゼミ。

先生の力強い声、コミカルな動き、圧迫感(いや存在感)、とにかくキュートで、わくわくする。毎週、90分間(あ、先生は教室に来るのが遅いからもっと短いか)のドラマの中にいた。

「本は手にとってみなさい」

石崎ゼミで君は何を学んだかと尋ねられたならば、胸を張って答えられるのは先生のこの言葉だ。人間一人が世界中の本を読もうと思っても、決してすべてを読むことはできない。でも、何かの縁があって出会った本は、手にとって見てみる。本を、経験する。それが大事なんだ、それが学問なのだ。ムッシュー石崎は雑談王だ。テクストがちっとも進まない。だけど、稚拙な言葉で言うと、先生の知的な雑談こそが私の糧になっている。大学にきてよかった、と思う、ただシンプルに。私は雑談が始まると机に向かっていた顔を上げた。雑談が始まらないと顔を上げなかったのかという質問はここでは敢えて黙殺する。雑談するときよく「え〜ついでにいうと…」と話がどんどん膨らんでいくのが先生の特徴。サルトルの話をしているとついでについでにいろいろいろいろ出てきちゃうみたい。そして一言、「世界は“ついで”に満ちている」…名言!!!更に、さんざん雑談しておいて、「“ついで”はモグラみたいなもんだ。モグラは全部たたかなくてもいい。自分で取捨選択していかないと収拾つかなくなる。」そう言い、本題のテクストに戻る。この言い回し!あまりにアンテリジョンスでニヤニヤしてしまう。私はすかさずテクストの隙間に「ついではモグラ」とメモする。後から見ると何がなんだかよくわからない。

そんなモグラたたきのような先生の膨大な知識の海に、私は毎回溺れそうになっていた。どうしてこんなにいろんな事を知っているんだろう?尊敬というよりむしろ怖さを感じていた。畏怖というべきか。ただ、私がもしも先生に近づくことができる方法があるのだとすれば、それは「本を手にとる」ことをこれからも続けていくことなんだろう。そして、私はこれから、生き方全てに、この姿勢をとっていくだろう。本だけではなく、出会った人、未知の食べ物、新しい土地、人生のあらゆるチャンス。とにかく「手にとってみる」。そうやって経験して、私なりの深い海を作っていく。人生の海の作り方を、私はここで学んだのだ。え、何?先生。ああ、「授業は休んでもいいからコンパには出ろ」の教えも忘れるなって?わかってますって!
(4年 高見沢 梓)

ある研究者の性格を、その研究対象の人物なり事柄なりに帰するというのはいかにもありふれていて、かつ大雑把なやり方であるが、結局石崎晴己教授をサルトルとを結び付ける気持ちをおさえずにはいられなかった。先生の授業(それがサルトルに関するものであってもなくても)を聞いていると、サルトルのテクストを読んでいるような気分になる。先生の語り口は、知的であり粗暴でもある、簡素であり過剰でもある。整然としていたはずの論旨が突如脱線することもある。なかでも、常に鋭い問題意識を持ち、対象を冷静に分析しながらも、なにかを伝えたいという思いに溢れた熱っぽい口調で語りかける先生の姿はサルトルにぴったり重なって見える。

基本的に石崎先生が学生に何かを強いるということはない。もちろん、授業がフランス文学の講読という形をとる以上、ある程度の下調べは必要であるが、それとて他のゼミと比較するとかなり負担の小さいものといえる。実際、学生の間では石崎ゼミが俗にいう楽なゼミであるということになっており、その噂通りに二年間のゼミ生活をのんきに楽をして過ごすことも可能である。しかし、取り組み方次第で石崎ゼミはなかなか刺激的なゼミとなる。

先生が専門とするサルトルの自由の思想によると、人間は自由の刑に処されているのであるが、石崎ゼミの学生も同様に自由である。上から指示されるものがない以上、学生は自らの行動の選択肢を自らつくり出さねばならない。他のゼミのように、前々日までに予習を完了させ、前日はその復習に当てるといった方針がない分、学生はなにをするべきかということを常に自分に問いかけなければならない。自分になにを課すべきかということを考える、これが石崎ゼミの最大の魅力といえる。

仏文科の生徒であるからといってフランス文学に固執する必要は必ずしもない。むしろ、常日頃からフランス文学という枠組みにこだわらずさまざまなものに関心を向ることが大事である。フランス以外の文学、思想、科学。あるいは映画、音楽、パソコンなどなど。石崎先生の関心はじつに多岐にわたるので、授業はサルトルのテクスト分析を出発点としながらもそこから様々な方面に枝わかれし、必ず学生の関心を刺激してくれる。そこからさらに知識を深めるも良し、知らなかったものは新たな知識への導きの糸とすればよい。

結局、何も石崎ゼミにかぎったことではないが、ゼミでの二年間を実りあるものにするのも無駄に終わらせてしまうのも結局は学生次第である。 (4年 福田 裕大)

 
 
(C)2003-2004 Aoyama Gakuin University